村田 専三郎 (むらた せんざぶろう) 1891年~1968年
教壇で近代不燃建築を説き、函館の建築史をまとめあげた村田専三郎。
明治24年7月23日岩手県盛岡市十三日町に生まれる。
幼児期から青年期までの成長過程は詳細ではないが、この時期に近代建築への関心が育てられたようで、その後官立東京高等工業学校に進み、大正5年3月卒業した。
人柄も良く成績優秀であることから卒業後は同校の工業補習学校で教鞭をとることになった。
彼はここで、いまだ徒弟制度残る建築業界にありながら、学求心に燃える青年達に、近代建築特に鉄筋コンクリート法を講義し、多くの技術者に感銘を与えた。
その後大正7年、東京市日本木材工芸会社に技手として就職、現場で建築・土木全般にわたる知識・技術を確かめることになる。
函館工業補修学校は明治末の44年に開設し、火事の多い市内にも鉄筋コンクリート造りの建造物も目につきはじめるようになったが、(明治45年、東別院本堂は函館での最初の鉄筋コンクリ-ト造り)大正10年、乞われて庁立函館工業学校と市立函館工業補修学校を兼務して教壇に立つことになった。
函館は火事が多く、彼が工業学校の教壇に立った年の大火も、罹災家屋2,141戸、教会、学校、商店、銀行など多くを焼失している。
皮肉なことに、多発する火災が大工や建築技師を求める一面、近代化する函館もまた優れた建築家を求めたのであった。
村田専三郎は早くから不燃家屋の必要を説いていたが、講義もまた熱を帯び、これからの建造物の在り方を述べたと言う。設計技術も当然優れており、大火で焼失した五島軒を、三階建ての五島軒ホテルとして設計し、10年12月に竣工させている。
こうして、村田専三郎の訓育を受けた建築家達は数多く、それぞれ、一般住宅のみならず公共建築物の建造にたづさわることになる。
昭和に入ると函館の建築工匠達の努力の足跡を記録に残さんと思い立ち、市内の主な建築物とその建築にたづさわった工匠の資料を収集しはじめた。その数、百余名に及び、あわせて函館建築年表の作成を行ない、古くは正平年間の古碑から昭和31年の元町NHK住宅新築に至るまでの歴史をまとめあげた。
この間30有余年、昭和32年からは半身不随の病床に身を横たえながらも、なお研究を続けた。
函館建築史の草分けとも言える、この「函館建築工匠小伝」は昭和33年、函館市史誌資料第31集として発表され、その教育活動と合わせて、昭和35年函館市文化賞を受賞した。
数多くの写真資料も収集し大成した「はこだての文化財」の編集に当った川嶋竜司氏は、同じ函館工業高校に籍を置き、村田専三郎の影響を受けた一人であり、いずれも函館の建築物を語る時忘れてはならない人物である。