八幡 関太郎 (やはた せきたろう) 1893年~1955年
学問を通じた芸術と云う特異な文学を残し、故郷・函館で執筆を続けた八幡関太郎。
明治26年12月24日、新潟出身の父八幡関蔵とイクの長男として函館に生まれる。札幌中学校卒業後24歳で上京、日本文学界に一大エポックを画した雑誌「白樺」の同人となる。志賀直哉、武者小路実篤、長与善郎、千家元麿、高村光太郎、梅原龍三郎、中川一政、木下利玄、柳宗悦、岸田劉生、小泉鉄、バーナード・リーチなどと共に中央芸苑に活躍する。
大正7年、函館から池袋に移した雑誌「太陽の都」を編集、武者小路、千家、小泉、などが寄稿者だった。そのうちに千家と同盟して1つの雑誌を作ろうということになり、千家あてに原稿を送ってきた倉田百三、武者小路の薦めた犬養健、近藤経一、杉原善之介、詩人の尾崎喜八、高橋元吉、柳田穎二らが集まり、「生命の河」という白樺の兄弟誌を出すことになる。これを2~3号出した頃に、芥川龍之介、菊地寛らの「新思潮」が発刊され、雑誌の交換を申し込まれたり、「生命の河」は評判となっていくが、ある事情で、関太郎が辞め、雑誌もつぶれてしまい、1人で「使命」を出す。
その後中国文学に志し、とくに東洋美術史の研究家として知られるようになる。著書に一世の名著といわれる「支那画人研究」を始め、「仏陀の福音」「画禅室随筆」「支那芸苑考」など数多く、明末清初の画家、「石涛」の評伝は、斯界の驚嘆のまととなった。新潟生まれの著名な歌人で学者会津八一は空襲で蔵書を全て灰にしてしまい今すぐに手に入れたい本として、関太郎の「支那画人研究」を「古書通信」の求書広告に出している。また、長与や武者小路の東洋知識は関太郎が供給者であった。
昭和13年の秋、高村光太郎と痛飲し高村は吐血し、関太郎は脳溢血で倒れ、それ以来半身不随となり、中国政府からの訪中依頼もあったがそれも叶わぬこととなった。
昭和20年3月、故郷函館に疎開してくる。放送局の坂道、曙町(現、元町)の門も塀もない小さい家が新しい研究の場となった。「石涛」もここで書かれた。右手が不自由なので左手でボツボツと書いた。ただ1人の門弟で、評論家の福田恆存の世話で出来上り次第、出版の予定となっていたが日の目を見ずに他界した。
我が国の金石文字(古代文字)研究の先駆者としての業績も高く国立北京図書館に日本人としてただ1人載っている。東洋美術研究に貴重な一連の書が函館の一隅で左手によってボツボツと綴られていた。詩も好きでブレイクの翻訳もある。
昭和26年、画家の田辺三重松と共に第2回函館市文化賞を受けた。
昭和30年1月11日、ロマン・ローランを愛し、ドストエフスキーに心を奪われた、碩学の文学者八幡関太郎は脳溢血のため63年の生涯を閉じた。