山崎松次郎 (やまざき まつじろう) 1885年~1954年
海上保安に尽力し、市政に経済界に巨大な足跡を印した函館の元老、山崎松次郎。
明治18年10月5日、新潟県佐渡郡河崎村大字大川村出身の松蔵の長男として弁天町に生まれる。
父・松蔵は安政2年3月、小濱九平の二男として生まれる。明治3年弱冠16歳の時、単身大阪に出て海運業丹後屋の船員となる。後に能登の水間三左衛門の船員となってたびたび北海道に来航するうち、三左衛門の世話で函館の漁業家・山崎幸次郎の養子となりその姓を継ぐことになる。明治25年、独立し、帆船で遠くロシア領沿海州方面にまで出漁。大いに成功を納め、海運業も兼営して函館屈指の事業家として多くの事業を遺し、昭和10年5月、81歳の高齢を以て没した。
松次郎は弥生小学校を経て、明治38年函館中学校(現・函館中部高等学校)を卒業。北海道屈指の豪商・初代相馬哲平の商店で7ヶ月間商業の実地見習いをするが、同年一年志願兵として旭川第七師団に入営、翌年正八位陸軍歩兵少尉に任官。除隊後、父・松蔵の業を継いで回送業を営み、大正元年頃まで松次郎経営のニコライスク漁場に出張し、後に山崎汽船株式会社を起こして取締役社長に就任する。
函館商工会議所議員に当選すること4期に及び、副会頭を務め大正11年10月20日函館市会議員に選出される。昭和17年10月には市会議長に推され、22年5月再び議長に選ばれる。
大正13年3月、外務省嘱託となり、日露漁業条約改訂交渉にロシアに赴き、北洋漁業に死力を尽くし、わが国の北の生命線を守るべく満丈の気を吐いた。
松次郎は函館消防組の産みの親でもあった。昭和2年、私設函館水上消防組を創設し、9年公設の認可を受けると同時に初代組頭の要職に就き、翌年の9月、帝国水難救済会函館救済所を創設して初代所長に就任する等海上保安に尽くした功績は大なるものがあった。
函館競馬倶楽部常務理事としても活躍。不振の同倶楽部を立て直し、また函館大火による義援金を以て創立した函館共愛会評議員として、被災者救済のためにも尽力した。
山崎汽船株式会社のほかにも、弁天倉庫株式会社、第一印刷株式会社、日本製缶株式会社、第一ゴム工業株式会社、北海道銀行等幾多の会社重役を兼任して産業の第一線で活躍する。
また、八島産業株式会社、株式会社西濱造船所、山崎合名会社、北海道ゴム株式会社、函館菓子会社等の要職にあり、市会議員の議席にあること30年あまり、同議長在任10年という閣歴は松次郎の輝かしい政治人生を物語るものでその在任の長きことは当時全国第三位で、全国市会議長会議の幹事の地位にあった。
昭和18年8月1日、市政功労者として表彰を受ける。
昭和29年7月8日死去。