函館市文化・スポーツ振興財団

梁川 剛一 (やながわ ごういち)  1902年~1986年

彫刻と挿絵というふたつの異なる分野で活動を続けた作家、梁川剛一。
オーソドックスなスタイルのなかに、各時代、各民族、各人の諸特徴をとらえ、それを立体的、流動的に活かした梁川剛一の表現は多くの人たちの心に真実味とあたたかい夢をはぐくみ続けた。

梁川 剛一

明治35年3月30日、函館で実父・梁川亀太郎、実母・ヨコの長男として生まれる。後に亀太郎の兄・鶴松の養子となり函館市旭町で育つ。明治41年函館市東川小学校(尋常科)に入学。大正3年、函館市宝小学校(高等科)入学。大正5年14歳の時、鉄道に勤務していた父の転勤で札幌に転居、北海中学(現・北海高校)に入学する。

大正12年東京美術学校(現・東京芸術大学美術学部)彫刻科塑造部に入学、この年に増井多津子(戸籍タツ)と結婚。世帯を東京目白に持つ。大正15年、24オ、第7回帝展に処女作「競技」を出品。初入選する。「ロダンの血が通っている」と評され、彫刻家としての将来を嘱望される。昭和3年、東京美術学校彫刻塑造部を首席で卒業する。その後一年間、函館の父のもとに家族で身を寄せ、父の実兄が経営する銀座通りのレストラン「アウル」や図書館に通いつめる。この時に図書館長の岡田健蔵氏や市長の斉藤與一郎氏らと交友を結び、これが機縁となって渡辺孝平、斉藤與一郎、岡田健蔵、太刀川善吉、岡本康太郎、西村安敬、近江政太郎ら函館の人の胸像を制作、高田屋嘉兵衛の像(昭和33年完成)の話がもちあがる。

昭和6年、小学館の学年別雑誌に児童物を書いていた筒井敏雄の紹介で「小学1年生」に擬人画「動物の花見」を描き、挿絵画家としてデビュー、初めて挿絵で画料をもらう。昭和9年、第15回帝展に「平和工作の響き」を出品、特選。この年函館市の依頼で明治天皇御上陸記念碑「鳳凰」を制作、旧税関事務所(現・海上自衛隊)前の北海道国道の起点に建立される。昭和11年、講談社の雑誌「少年倶楽部」に挿絵を描き始める。1月~12月は「黒い真珠」(久米正雄)、4月~12月「魔海の宝」(南洋一郎)、3月号別冊付録「敵中横断三百里」(山中峯太郎)を描く。同時に2本の連載を担当したため「魔海の宝」ではペンネームに松前潮という名を使用する。この他にも、読売新聞、北海道新聞等の連載小説の挿絵も手掛け、広津和郎、川端康成、石川達三、小島政二郎らと親交を結ぶ。昭和12年講談社の絵本「リンカーン」の挿絵を油絵で描き、大きな反響をよぶ。1月~12月まで「少年倶楽部」に連載小説の「少年探偵団」(江戸川乱歩)、「黒将軍快々譚」(佐藤紅緑)の挿絵を描く。又講談社の「世界名作全集」の全巻の装丁を担当する。

終戦間近の昭和20年7月、妻の両親を頼って札幌に疎開する。昭和22年、紙屋を営む藤居準一、口談童話の塚本長蔵らと「エルム社」を設立し、毎月子供向けの絵本をつくる。その他にも「応用美術協会」を設立し、展覧会開催や繁華街のアーケードの計画、設立等を行なう。この年、新日本文化協会理事、並びに北海道科学普及協会評議員に就任する。

昭和23年、北海道博覧会の大通会場の設計と正門アーチの建築全般を委任される。昭和37年オペラ歌手・三浦環の扮する「蝶々夫人」像を長崎のグラバー邸のために制作。同時に「プッチーニのレリーフ」もつくり飾られる。昭和48年、児童文芸家協会の児童文化功労賞受賞。昭和54年、北海道大学の依頼で、クラーク博士の「ボーイズビーアンビシャス」の大レリーフを制作する。平成元年、挿絵原画1327点を市立函館博物館に寄託。彫刻49点、遺品22件、図書942冊を寄贈。この年、昭和61年12月16日に開館した「梁川剛一記念美術館」が閉館した。

函館ゆかりの人物伝