吉谷 一次 (よしたに いちじ) 1898年~1990年
北海道水道事業のパイオニアとして活躍し“技術屋市長”とも呼ばれた元函館市長・吉谷一次。
明治30年3月14日、青森市郊外の長島町で父・重平、母・まつの次男として生まれる。父・重平は小さな土建屋を営み、一次が2歳の時、函館ドックの拡張工事の下請けとして函館にやってくる。住居を鍛冶町拾六番地(現・弥生町)に構える。大正3年函館中学校(現・函館中部高等学校)を卒業後、北海道帝国大学土木専門部(現・北海道大学)へ進む。
大正9年11月、北海道炭砿汽船(北炭)勤務を経て函館区水道拡張事務所(現・市水道局)に技手として勤務。笹流堰堤を含む第二次拡張工事に従事する。以後30年に亘り函館市のみならず本道における水道事業界の先駆者としての役割を担う。
昭和30年、助役、水道局長など函館市の要職を歴任した後、函館市長として3期12年にわたって市政を担当し、水道、港湾整備事業を推進する。「どんな施設でもカネをかけないでつくるのが技術屋の誇り」が信条で、財政ひっ迫の折から緊縮財政を貫く。そんな中で旧函館区公会堂の保存など文化行政にも力を入れた。
水道事業関係においては、早くから上水協議会の一員として活躍、昭和7年に水道協会(後の日本水道協会)の設立に参与し、以来協会の重鎮として水道事業の発展に架可与するとともに、道内各都市の水道工事に当たっては技術指導を惜しまず、稚内や網走、江差、今金など道内の3市21町村の水道事業の新設拡張工事に職員を派遣して技術指導を行い、道内の水道事業の発展にも貢献した。
また、温泉に関する権威でもあり湯川温泉を利用して炭酸製造事業を成功させている。
港湾整備事業では、港湾施設の整備拡充に力を注ぎ、函館港整備計画を策定して、港湾改修や埋立工事を実践。重要施策として函館港埋立事業計画を立案して工業用地を造成、ここに企業を立地させ、出荷額も20億円を突破するなど、港勢を著しく伸長させた。
下水道事業についても昭和30年頃から行き詰まってきたし尿処理に対応するため、我が国初の試みであるポンプ圧によるし尿海中放流を成功させた。
函館市長在任中は、港湾改修、埋立工事、道路、下水、公園等の整備、特に街の緑化に力を注ぎ、函館の都市基盤づくりに尽力した。これらの業績により昭和29年市功労者として函館市長表彰、30年日本水道協会功労賞受賞、37年厚生大臣賞受賞、43年勲四等瑞宝章受賞等の栄誉に輝いた。48年には水道界の権威として日本水道協会名誉会員に推されている。
昭和53年8月1日、斎藤與一郎、平塚常次郎についで3人目の函館市名誉市民となった。
平成2年3月23日、水道行政の基礎を築いた功労者、元函館市長・吉谷一次は急性心不全のため93年の生涯を閉じた。