カール・ワイデル・レイモン 1894年~1987年
東洋のサムライの国「日本」に憧れたハム・ソーセージづくりのマイスター(親方)。
地元函館の人々はもとより、全国のファンから「胃袋の宣教師」と呼ばれた、礼門。
1894年3月28日、ドイツ・ボヘミア地方(現在のチェコスロバキア)のカルルスバ-トという町で、生まれる。父、アントン・レイモンは当地で4代続いた食肉加工のマイスターだった。レイモンが父の仕事であるハム・ソーセージづくりに興味を覚えたのは5才の頃。父の白いエプロンにつかまって仕事場に入ったレイモンは、ハム・ソーセージができあがる工程を来る日も来る日も飽きることなく眺め続けていたという。これこそ一生の仕事だと決めたレイモンが、本格的な修業を始めたのは14才の時だった。そして父はレイモンを友人のマイスターのもとへ送った。
修業に出たレイモンの毎日は、ハム・ソーセージづくり一色だった。昼はマイスターのもとで技術を実習し、夕方になると学校で家畜獣医学や酪農技術からハム・ソーセージを作る機械の仕組みまで、必要な知識を学んだ。ドイツでは、3つの階級による古くからの徒弟制度が今も生きている。「レーリング(見習い)」「ゲゼル(職人)」「マイスター(親方)」からなるもので、修業は働ながら週1度職業学校に通って学ぶレーリングからスタートして3年後にゲゼルとなり、ゲセルとして年季を積んだ後にマイスターになるための試験を受けることができるというものである。
1912年、地元での修業を終え、18才で食肉加工の職人として独り立ちしたレイモンは、ベルリンに出、ヨーロッパ最大の食肉会社ハイネン・カンパニーに入社した。ここで数年働いた後、フランス、スペインで修業を重ね、一旦帰国してマイスターの資格を取る。そして今度は、缶詰づくりを学ぶため漁業の国ノルウェーに渡たり世界的な缶詰会社のフェレススラクテリエト社に入る。ところが1914年第1次世界大戦が勃発。当時故郷カルルスバ-トは、ドイツ領からオーストリア・ハンガリー帝国領へと移っていた。やむなく帰郷したレイモンは、オーストリア陸軍の志願兵として戦地に赴いた。そしてバルカン戦線で負傷、カルルスバートに戻る。
1915年、フェレススラクテリエト社に戻ったレイモンは缶詰の大量生産技術習得の命を受け、世界最大の食肉会社であるアメリカはシカゴのアーマ社へ研修員として3年間の期限つきで、旅立つ。「細胞を一時的に眠らせる」レイモンのハム・ソーセージづくりの基礎は、この時期に完成した。「私の人生の中で、最も楽しかった時代ですよ」
3年間のアメリカ研修を終えてノルウェーへ帰る途中、サンフランシスコから日本行きの客船に乗り込んだ。1919年レイモンは憧れの日本の土を踏んだ。
ある日銀座を歩いていたレイモンは1人の若者と出合い、東洋缶詰会社の重役柳沢伯爵を紹介される。そしてここでハム・ソーセージづくりの技術指導をスタートすることになる。そして1年後の1920年日魯漁業とともに日米合資缶詰会社を作っていたセール・アンド・フレーザー社からの誘いで、カムチャツカの工場を統括する基地のあった函館に赴くことになる。
1920年に始まったレイモンの函館暮らしは、またたく間に1年が過ぎた。
レイモンはこの函館の街で、一世一代の大恋愛をする。その人はレイモンが常宿にしていた東浜町(現在の末広町)の勝田旅館の娘コウであった。しかし、当時は外国人との結婚が許される時代ではなかった。1922年レイモンとコウは中国・天津のホテルで落ち合いドイツへ向う船に乗り込んだ。カルルスバートにたどり着いた2人は、レイモンの家族からあたたかい歓迎を受けた。そして地元の教会で、結婚式を挙げ、晴れて夫婦になれたのである。
カルルスバートに落ち着いたレイモンは、兄弟とともにハム・ソーセージの工場をつくり、コウと店を開いた。店も繁盛し、すべて順調であった。カルルスバートでの暮らしはすでに3年目を迎えていた。そんなある日レイモンは突然、コウに日本へ帰ると言い出した。「知らない土地で神経を摩り減らす私の姿を見ていた主人は、自分が“異国人”になったほうがいい、きっとそう思ってくれたのだと信じています」-コウ。1925年、レイモン31歳、コウ26歳。
希望に燃えた2人は函館駅前に店と工場を設けた。しかし庶民には見向きもされず、子供たちだけがほんとうにおいしいって食べてくれた。レイモンにとって子供たちはハム・ソーセージづくりを支えてくれる希望の光だった。
苦しい生活の中にありながらもレイモンは畜産からハム・ソーセージづくりまでを一貫して行う“北海道開発構想”を忘れなかった。
その後、工場は五稜郭駅前に移転。1933年、レイモンが提唱する北海道開発構想のミニチュア版をつくるため大野町に工場を建設した。
1935年から2年間レイモンは満州各地に10ヶ所の畜産試験場を開設させた。それは北海道では受け入れられなかった北海道開発構想そのものであった。
満州を去る日、当時の満鉄総裁、松岡洋右から、その功績を讃えられ直筆の「礼門」という日本名を受けた。
1938年、大陸の畜産指導から戻ったレイモンに1通の書類が差し出された。なんと大野町工場をわずか5万円で売り渡すという契約書であった。まさに強制買収そのものだった。仕事はなく、安住の場所もない。しかたなく函館に留まることにした。工場売却代金の5万円で元町に1軒の家を買った。
敗戦から3年が過ぎた1948年、ようやくレイモンはハム・ソーセージづくりを再開した。レイモン54歳、彼が初めて函館の地を踏んでから30年が過ぎようとしていた。自宅横の工場の入口には「北海道創始者仕事場(HOKKAIDO
PIONEER'S WORKSHOP)礼門」の看板を掲げた。ここでレイモンはドイツ伝統の製法によるハム・ソーセージづくりを守り続けた。
1974年、西ドイツのハイネマン大統領から、日本とドイツの友好に関する彼の長年の努力を称え、「功労勲章十字章」が贈られた。そして1979年、財団法人サントリー文化財団が設けた第1回地域文化賞の優秀賞に選ばれた。
函館元町を永住の地と心に決めたレイモンに、1985年11月、2つの嬉しいプレゼントが届いた。1つは、「北海道新聞産業経済賞」の受賞。もう1つは、横路北海道知事から「産業貢献賞」の授与。さらに1986年5月、長年の日本の畜産業への貢献により、「勲五等双光旭日章」を受賞した。
1987年10月22日、朝の散歩から帰ったレイモンが自宅で倒れた。一過性脳こうそくだった。意識不明のまま1ヶ月がたち、その年の12月1日、コウや娘のフランチェスカに見守られながら永遠の眠りについた。享年93歳だった。
レイモンのハム・ソーセージづくりは今、たった1人の弟子福田俊生が製法もそのままに引き継いでいる。