函館市文化・スポーツ振興財団

和田芳恵 (わだ よしえ)  1906年~1977年

編集者生活から樋口一葉研究をライフワークとしながらも、
短編小説に独自の境地を築いた和田芳恵。

和田芳恵

明治39年4月6日、山越郡長万部町字訓縫(現・国縫)にて荒物雑貨商を営んでいた父伊太郎、母リヱの四男として生まれる。

大正8年、訓縫小学校卒業後、庁立函館商船学校に入学。私立北海中学校を経て中央大学法学部を卒業する。

昭和3年、大学卒業後、新聞記者になろうと思い、父の縁故をたよりに「朝日新聞」の石川六郎(作家石川達三の叔父)に逢うが、体が弱いので新聞記者は無理だといわれ、新聞記者になるのをあきらめる。

昭和6年、「ノイエ・ザッハリッヒカイト」(新即物主義)の論文を丸善で探し出し、この評論を書いて石川六郎へ届けたところ賞めてもらい、新潮社へ社員として推薦される。直ちに「日本文学大辞典」の編集部に配属され、続いて「日の出」の編集に従事する。

昭和15年、「三田文学」に連載「樋口一葉」の第1回を発表。翌年8月に完結する。16年4月創刊の同人雑誌「山」に「格闘」を発表、400字原稿用紙30枚ばかりの「格闘」がこの年の上半期芥川賞候補作品21編のリストにのる。8月、新潮社に退社を申し出る。10月、十文字書店から「樋口一葉」、翌年の5月、泰光堂から連作短編小説「作家達」、9月、泰光堂から書き下ろしの長編小説「十和田湖」をそれぞれ刊行する。これは和井内貞行を調べて書いた伝記小説だった。

昭和18年9月、今日の問題社から書き下ろしで「樋口一葉の日記」を、11月、同じく書き下ろしの長編小説「離愁記」を刊行する。

敗戦直後の昭和22年、「日本小説」の編集に携わる。いわゆる”中間小説”の名称はこの雑誌の小説によって起こる。

昭和31年6月、「一葉の日記」(筑摩書房)で日本芸術院賞を受賞し、ついで38年11月、長編小説「塵の中」(光風社)によって直木賞を受賞する。

昭和45年、長い編集者生活の体験による随筆集「私の内なる作家たち」(中央大学出版部)を刊行し、49年の短編集「接木の台」(河出書房新社)で読売文学賞を受ける。特筆していいのは、和田文学が晩年に至って”とつぜん成熟した”(丸谷才一)ことで、その功緻きわまる作品群によって、”短編の名手”の名をほしいままにする。

50年には短編集「抱寝」(河出書房新社)を出しており、「接木の台」と共に「幼なじみ」など故郷ものが多く収められている。肺気腫と闘いながら「文芸」に連載した「暗い流れ」は北海道を舞台にさまざまな性の体験を通じて成長してゆく自伝的小説で、日本文学大賞を受ける。

昭和52年10月5日、晩年まで精力的に執筆し、短編小説に独自の境地を築いた和田芳恵は十二指腸かいようのため、その生涯を閉じた。享年71歳だった。

死後にも「雪女」によって川端康成文学賞が贈られ、没後あいついで短編集「雀いろの空」「雪女」随筆集「順番が来るまで」「ひとすじの心」「作家のうしろ姿」が刊行された。

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