渡邊 熊四郎(初代) (わたなべ くましろう) 1840年~1907年
将来の北海道開拓を考え、鉄道の敷設を見込み、釧路方面の土地を買占めして巨万の富を築いた、函館第一の実力者、初代渡邊熊四郎。
天保11年6月豊後国竹田古町(現・大分県竹田市)に生れる。幼名を熊蔵と称した。父は山下此吉と云い、薬種・葉煙草等を営んでいた。
熊蔵16歳の時、薬種の仲買をし、長崎を往復して外国貿易に従事、遂に同地の薬種商渡辺重吉の店員となり、次いでその養子となり、名を熊四郎と改める。
北海道の海産物売りさばきを依頼されたのが縁となり、籍館奉行所御用達の奨めで文久3年、義弟の山下音吉(のちの2代目熊四郎)とともに箱館に渡る。商機を見るに敏で、始め海産商をして巨利を得た。
明治2年6月、はじめて大町に洋物店を開き、屋号を森屋と云い、商号をとした。
熊四郎の商経営を見ると、多角経営に独特の才があったようだ。洋物店にとどまらず、洋服仕立てもやり、靴職人を東京から呼び店を持たせ、砂糖を販売して外国商人を駆逐し、時計店も開業、眼鏡から気象器機まで取り扱った。その他にも、船具・回船・倉庫など、店舗だけで10数店を設け、明治20年代には、北海道随一の大商店と云われるに至った。
明治11年には北海道開拓使長官黒田清隆一行に加わってロシアのニコラエフスクに行き、ウラジオストクの貿易状況を視察して、25年には欧米視察をして帰るなど、広い視野を養ってもいた。
また、熊四郎は単に自家の商売だけではなく、町のため、社会のためになる事業を計画し、公共福利のためには多大の寄付を惜しまなかった。平塚時蔵・今井市右衛門と共に書店を開き、新聞縦覧所を併せ設け、魁文舎と称した。次いで、小学校の設立を企画し、富商杉浦嘉七に図り、内澗学校を開設する。次に時運の要求に伴って、16名の賛成者を得、自ら創業管理の任に当り、明治11年1月函館新聞を発刊する。9年、函館公園造設に際しては1000円(当時)を寄付。10年、9名の同志と共に資を醸出し、貧困者のために鶴岡学校を開設。11年同志と資金の募集に奔走し、豊川町に病院を設立する。これが後に第一公立病院となった。また、14年、平田文右衛門・今井市右衛門と函館器械製造所を設立、後に函館船渠株式会社に譲り渡す。
明治29年1月隠居し、義弟の音吉に熊四郎の名を譲り、孝平と改め、一切の公職を辞した。
明治15年9月藍綬褒章を受け、40年11月特旨を以て従六位に叙せられる。
明治35年、存命中に慈善事業の最終と思い立ち、函館病院の建築費用として私費10万円(当時)を函館区に寄付した。
明治40年11月30日、函館の町づくりに大きな業績を残した初代渡邊熊四郎は病のため68年の生涯を閉じた。
函館四天王
明治初期から中葉にかけて函館経済界の重鎮として活躍し、産業振興、更に福祉事業や都市造りに力を尽くした函館市民精神の源流。今井市右衛門(1836~1887)、平田文右衛門(1849~1901)、渡辺熊四郎(1840~1907)、平塚時蔵(1836~1922)の4人で、元町公園にある四天王の銅像は函館青年会議所30周年記念事業として建立された。