遠藤吉平 (えんどう きっぺい) 1841年~1931年
俵装荷造改良の恩人として偉大な足跡をのこし、主唱して函館商工会を創立し2代目の会頭を務めた遠藤吉平。
天保12年3月15日、廻船業佐藤六右衛門の二男として越後国北蒲原郡築地村(現・新潟県胎内市)に生まれる。幼名・富次郎。
幼い頃から大志を抱き、安政2年16歳にして商船に乗り込み蝦夷、樺太地方の航海に従事する。
文久元年、箱館の漁業家・中川勇助に5年間雇われ、いったん郷里に戻る。慶応元年同郷の遠藤吉平の養子となり、養父の死後襲名して吉平と改める。
吉平は、長年北海道の各港の航海に従事してその事情に精通し、明治11年一家を挙げて函館に移住し海陸物産商を開き着々と発展を遂げる。
明治13年、開拓使より相場会議所委員を命じられて以来、函館区会議員、函館商船学校商議員、函館商業会議所特別議員、所得税調査委員、函館築港又は港湾調査委員等数多くの公職を務めた。
吉平は米穀その他の荷造りが甚だしく不完全なのに痛感して、密かにその改良を企て、その具体案を関係官庁に送り、或いは朝廷や民間の名士を説得する。明治14年、第二回内国勧業博覧会に俵造改良のひな形を製図にして出品。大いに識者の関心を深め、翌年ついにその熱誠が報いられて当局の受け入れられるところとなる。
明治15年6月、農報第二号省令をもって俵制改良の件が各府県に通達され、かねてから抱いていた志がはじめて達成される。16年、時の農商務大輔・品川弥二郎が北海道を訪れた際、旅館を訪ねて俵造改良の急務を訴える。翌年更に農商務省より全国の製塩家に俵造改良が示される。その後は出版物により或いは自らも各地を巡り歩き、その改良の普及のため奔走する。
明治20年、道庁の嘱託を受けて清国における水産物の販路を調査し、28年更に戦役後の清国を視察し地方の実業界発展のために尽力する。
明治22年、主唱して函館商工会を創設し副会頭に推され、後2代目の会頭を務める。これが現在の函館商工会議所の始まりである。その他船渠会社、セメント会社、馬車鉄道会社、共同商会、米穀塩海産物取引所、百十三銀行等の諸事業の創設等に力を尽くす。
明治41年、旧函館県より選ばれて、衆議院議員となるや議政壇上にて俵造改良についての長年の思いを吐露
して感銘を与えたことは有名な逸話である。また、落花生の栽培を奨励して産業にも大いに貢献した。
明治42年、藍綬褒章を賜わる。
昭和7年8月12日、病にて死去。享年92歳。