井上 幸子 (いのうえ さちこ) 1913年~1986年
音楽と平和と花をこよなく愛し、半世紀におよぶ函館の音楽運動につくされた井上幸子先生。
大正2年5月22日、会所町(現元町)にて父・佐々木文治、母・ハツの長女として生れる。父・文治は鹿部町の漁師の家に生れ、東京大学法学部を卒業後函館で弁護士となる。又母親のハツは函館の裕福な回船問屋の娘で、東京の跡見女学校から女子美術に通った方という。
15年弥生小学校を卒業し、母親と同じ跡見女学校に入学。昭和5年同校卒業後実践女子専門学校(現実践女子大)に入学するが1年で中退、音楽教師の道に進もうと決意する。翌6年武蔵野音楽学校(現武蔵野音楽大学)師範に入学しピアノと声楽を修め、9年同校の六回生として卒業。函館からは初めての卒業生だった。
卒業後は、高木東六氏に師事する傍ら作曲家吉田たか子氏(後の久保栄夫人・隆子)のアシスタントをつとめていたが10年に帰函。「美鈴会」を主宰し、ピアノ教授・音楽教育・発表会などにつとめた。
その後、独奏、伴奏など演奏活動や開局したばかりのNHK函館放送局(JOVK)から放送もした。帰函後まもなく「函館プレクトラムオーケストラ」の定期演奏会でショパンのワルツ、マズルカを独奏したのを手始めに、12年林喬木氏・根上義雄氏・斉藤ミトシ氏・酒井武雄氏らと「函館音楽協会」を設立し活発な演奏活動を続けた。
翌14年10月、荻野社長が店員の情操教育として女店員80名からなる「棒二森屋女声合唱団」を設立させ、乞われて指導にあたった。2年後には、全国勤労者音楽大会の中継放送で、北海道の合唱代表として出演するまでになった。
14年、函館大妻女子高等技芸学校(現大妻高校)の音楽講師となリ3年間つとめた。
16年、函館市立中学校(現東高校)の国語教諭・井上一氏と結婚。この年の12月8日太平洋戦争か始まった。
18年、函館電話局の交換手を中心に職場合唱団がつくられ、その指導にあたる。しかし、戦局はだんだんきびしくなり生活物資の配給も限られ、合唱団「美鈴会」も一時中断することになる。
20年8月15日、第二次大戦終る。”その夜は重苦しい暗幕がとりはらわれ、あかるく輝く電灯のもとで、長い間うたうことを禁じられていたインターナショナルを夫と二人、ピアノを叩いて思いきり歌った。久しぶりに味わう解放感だった”(幸子私記より)。
24年、一氏レッドパージ(共産党員とその同調者に対する一方的解雇)を受け、復職要求のたたかいをすすめる。子供たち2人はまだ小さく、ピアノを教えて得たわずかの収入で家計のやりくりをしたが、この頃がいちばん辛い時期だったと思われる。この年、日本共産党人党。
27年、「函館トロイカ合唱団」を創立し指導にあたる。翌年「日本のうたごえ祭典」に北海道の代表として参加した。
36年、一氏函館市議会議員に当選。初の共産党議員となる。
38年、武蔵野音楽大学同窓会道南支部設立とともに支部長となり以後20年間その任をつとめた。56年、もと函館電話局にいた人たちが「函館こぶし合唱団」をつくり、その指揮者として迎えられた。
61年、“ライラックの花房が紫に揺れ、ニセアカシアの白く乞う六月”(一氏筆)、肝臓ガンのため6月13日午後2時20分死去。享年73歳。
函館の音楽運動につくされた生涯をたたえて、前記の音楽関係者によりこの年の7月20日「音楽葬」が行われた。本人の遺言により、生前の愛唱歌であった「美しき祖国のために」が瑞々しく力強く7月の空に響きわたった。