函館市文化・スポーツ振興財団

石川節子 (いしかわ せつこ)  1886年~1913年

啄木一家の窮状を精神力で堪え忍んできた薄幸の妻・節子。

石川節子

明治19年10月14日、父・堀合忠操、母・トキの長女として岩手県南岩手郡上田村新小路11番地(現・盛岡市上田岩手大学構内)に生まれる。

明治25年4月、盛岡第一尋常小学校から盛岡高等小学校に進み、32年3月修了後、ミッションスクール私立盛岡女学校本科2年に入学する。

明治31年4月、啄木は盛岡尋常中学校に入学。32年堀合家に寄寓していた先輩の山崎廉平を訪ねるうち節子と知り合う。節子は初め啄木の思いを受け入れられなかったが、啄木の熱意に押され気持ちが傾いていく。

明治35年3月、盛岡女学校を卒業、家事に従事する。結婚にあたり、両親の反対に遭うも啄木の長姉・田村さだと節子のおば・高橋ノシの奔走もあって婚約が整う。節子は結婚も決まり、岩手郡滝沢村立篠木尋常高等小学校代用教員に奉職する。

38年3月退職し、5月12日石川家に入籍する。家事の合間をみて歌を作り、数首を「小天地」第一号にのせる。

明治39年3月4日、渋民に移る。12月29日、長女・京子出産。

明治40年4月22日、啄木渋民小学校を退職。5月5日、北海道にわたり、函館商業会議所の臨時雇い、函館区立弥生尋常小学校の代用教員、函館日々新聞社の遊軍記者などに就く。7月7日、節子は京子を連れて来函。8月25日、大火により啄木職場を失う。

9月13日、啄木札幌に向かう。16日、節子小樽に行く。27日、啄木小樽日報に入社。41年1月19日、啄木釧路新聞に入社し単身赴任。極寒の時でも啄木は送金十分ではなく悲惨な生活を送る。

4月5日、啄木は釧路を去り、家族を函館の郁雨に託して単身上京。節子は郁雨の援助を受けていることが心苦しく思い、釧路に転勤する吉野白村夫人のあとを受けて、宝小学校の代用教員となる。

明治42年啄木東京朝日新聞社に入社。啄木との生活がようやく叶えられたにもかかわらず、妹ふき子に宛てた便りには、喜びの色が見られず、暗い絶望感でおおわれていた。

明治43年10月4日、男の子を産み、真一と名付けるが、肥立ちが悪くその月の27日に亡くなる。

明治44年7月28日、節子も肺尖(はいせん)カタル(肺結核の初期症状)と診断される。8月7日、病気回復のために環境が良い小石川区久堅町へ移る。

明治45年4月13日、啄木、小石川区久堅町にて肺結核のため死去。6月14日、次女を出産。房州(千葉県)で生まれたため房江と名付ける。9月4日、節子は二人の遺児を連れ、函館に移っていた実家に帰る。

大正2年5月5日、肺結核により豊川病院で息を引き取る。行年28歳。

函館ゆかりの人物伝