岡田 健蔵 (おかだ けんぞう) 1883年~1944年
社会教育の重要部門である図書館事業に生涯をかけた岡田健蔵。世界的にも有名な市立函館図書館は初代館長岡田健蔵の独力でつくられた私立図書館から始まった。
工匠(大工の棟梁)岡田丹蔵の長男として、函館区澗町8番地に生まれる。父丹蔵は、青森県下北郡川内町の出身で、文久年間(1861~1863)に箱館に渡り、家号をといい、当時函館の棟梁仲間では、相当名の売れた人であった。
明治29年4月、私立幸小学校から公立弥生小学校高等科第3学年に転校、同30年、高等科第3学年を修了すると同時に退学、丁稚見習のため弁天町の雑貨商、山崎作蔵商店に奉公した。明治36年、この店を退職し、澗町で洋型蝋燭の製造を始め「太陽石蝋」と名づけて販売した。
蝋燭製造の原料のパラフィンは米国から、ステアリン酸は仏国からと総て輸入品に依存していたので、北海道産の鰊、鰮油から蝋分を抽出して、これに代えられないものかと、これに関する文献を探したが、適当な文献を得ることができなかった。
このようなことを解決するには、図書館を設けて各種の文献を集め、各種の産業の発展に資さなければならないと決心し、図書館の設立を固く心に決めたという。
明治39年に「函館毎日新聞緑叢(りょくそう)会」が結成された。その年の9月24日、同会の大会が谷地頭で開催され、この機会に図書館の必要性を説き、その設立を提案したところ、満場一致で可決され第1歩が踏み出された。
翌年の6月、自身の私蔵する図書、雑誌、新聞と函館毎日新聞社に寄贈された図書や雑誌などを基礎として澗町の自宅店舗内に、「函館毎日新聞緑叢会附属図書室」を設けて一般に無料公開した。
しかしこの年の8月の大火で住宅店舗を類焼、蔵書の過半数を焼失し、止むを得ず図書室を閉鎖した。その翌年区長山田邦彦の紹介状を携え緑叢会の派遣として東北ならびに中央の既設図書館の視察をし視野を広めた。
明治42年、評議員20名を選任し、館長に泉孝三、副館長に工藤忠平、主事に岡田健蔵を配して私立「函館図書館」が誕生した。大火後1年半に及ぶ献身的な努力と情熱によって本格的な公共図書館の設立に成功、現在の市立図書館の基礎がここにできた。
大正2年相馬哲平氏から書庫建築費を、小熊幸一郎氏から図書館建築費の寄附があり、大正5年に書庫が完成した。この書庫が北海道最初の鉄筋コンクリ-ト建築物である。しかし図書館の経営は、困難を極め給料を払って館員を雇うこともできず結局、一家を挙げて図書館の経営にあたることになった。
大正11年の秋、図書館事業促進の目的で市会議員に立候補し、見事に当選、2期勤めたが辞任し、市立函館図書館長に就任した。
昭和14年、公立図書館長に任ぜられ、高等官七等待遇となり、同年従七位に叙せられた。今日、市立函館図書館が質量ともに北方郷土資料の宝庫として世に知られているのは岡田健蔵の明智と犠牲の賜である。