恩賀徳之助 (おんが とくのすけ) 1877年~1963年
呉服太物商から衆議院議員にまで上りつめ、街の発展に尽くした全道的に著名な人物、恩賀徳之助。
明治10年1月21日、和歌山県那賀郡粉河町で父・定一郎の次男として生まれる。父・定一郎は綿ネル製造業を大々的にやっており、生家は七百年も続いた旧家だった。
また、父親は政治が好きだったことから、政友会の大物などがやって来るとたいてい父親の別荘に泊めていたので、徳之助はいろいろと政治の話を聞かされ、自然と政治に興味を持つようになる。
地元の小学校を卒業。弁護士か判事にでもなろうと大阪桃山学院を卒業後、東京法学院に学ぶ。しかし、学業をほっぽりだして碁ばかり打つ生活ぶりに業を煮やした父親は「お前の勉強ぶりはなっていない。一体東京に何をしに来たのだ。
いっそのこと学校をやめ、将来必ず発展する北海道で綿ネルの販売業でもやってみないか」と勧められ、東京法学院を2年で中退し、明治35年7月来道する。当初は同県人の居る小樽の予定だったが、最初に土を踏んだ函館に居を構えることにハラを決め、翌年の6月妻を連れだって再び来函し、末広町にて呉服太物商を営む。
明治43年、深く思うところがあり南清視察団の一行に加わって上海を中心に中国南部を視察する。帰函後、初めて市政にたずさわり、しだいにその頭角を現す。
大正4年、函館呉服太物商組合長となる。翌年、函館区都市計画調査委員及び同港湾調査委員に当選。6年11月、函館区会議員に初当選する。7年2月、函館商業会議所常議員となる。9年8月、道会議員選挙に打って出て見事に初陣を飾る。
商事調停委員、地蔵町衛生組合長等の要職にあり、その他北日本製紙株式会社監査役、大印青物市場株式会社副社長として函館の政界に於ける中心人物としてはもちろん、財界にも力をもっていた。
大正11年10月、最初の函館市会議員に当選し、同時に初代市会議長の栄冠を得る。12年7月、函館市会議長を辞任、13年8月、都市計画北海道地方委員会委員に選任され、同年10月再び函館市会議長となり、会議所議員に再選、この年日本生命保険会社代理店を引き受け、呉服太物商を廃し同時に組合長を辞任する。
昭和5年10月、函館市会議員に再選、函館市臨時電気事業調査委員に当選し、更に都市計画北海道地方委員会委員となる。9年9月、函館市臨時中小商工業及び水産業復興資金途用審議委員に挙げられる。翌月、市会議員に再選。この間市会議長の椅子を占めること4度。11月、函館市臨時電気事業調査委員に再選。
昭和10年6月、第3区衆議院議員補欠選挙に出馬し、強敵2名を向こうに廻して中原の鹿を逐って(※注天下の中央で帝王の位を得ようと争う)最高点で当選し代議士を勝ち得る。
昭和38年1月16日、呉服太物商から衆議院議員にまで上りつめ、街の発展に尽くした恩賀徳之助はその生涯を閉じた。