大庭 恭平 (おおば きょうへい) 1830年~1902年
勤王の志士、旧会津藩の戦士、新政府の役人、漢詩人と四つの顔を持ち、動乱期を駆け抜けた、大庭恭平。
天保元年11月、大庭正吾弘訓(ひろのり)の次男として会津若松城下で生まれ、名前は景範といった。
文久2年、藩主・松平容保(かたもり)が京都守護職に任じられて上洛(洛=京都のこと)すると、これより先に上洛する。会津藩の重臣である田中土佐玄清(はるきよ)や野村左兵衛の密命で浪人となって、京都で活動する過激派の攘夷浪人の監視を行うためとされていた。
文久3年、京都の治安維持を務めようとしていた矢先、「足利三代木像臭首(きょうしゅ)事件」が起こる。これは、洛西の等持院に置かれていた足利歴代将軍の尊氏(たかうじ)・義詮(よしあきら)・義満(よしみつ)の首が木像から引き抜かれ、京都・三条大橋の下の河原にさらされたものだった。
犯人の中に会津藩士である大庭恭平がいた。首謀者達は捕縛され、永代謹慎となった。恭平は会津藩を脱藩した長沢真古人から尊皇思想の影響を受けてこの事件に加わったのである。
慶応3年、王政復古の大号令がくだされるとともに京都守護職という役職自体が廃止され、新政府は恭平たち11名の禁固を解く。4年、免罪となり謹慎先の信州上田藩から釈放されると、会津若松へ戻り北越戦線の会津藩に加わる。恭平は旧幕府軍を監視する役割もあり、古屋作左衛門が率いる衝鋒隊の軍監となる。
時は慶応から明治へと年号が変わるとともに戊辰戦争は結末を迎えていく。降伏後、恭平は若松県民政局に勤務し、頭取・町野主水の片腕として多くの会津人と共に白虎隊をはじめとする戦死者たちの遺体を集め、主として長命寺、阿弥佗寺に埋葬する。
明治5年7月31日に機(はかる)と変名して、札幌の資生館(現・札幌市立資生館小学校)という近代学校の初代学長になる。恭平は達筆で若い頃から俳句を詠み、詩人としても名高く、字(あざな)を松斎といった。
明治15年、函館県に着任し、函館県警部に任じられるが、同僚と意見が合わず、兵事課長心得という役職に異動となる。
明治19年、北海道庁が成立し、函館県が廃県となると、お役御免となる。20年代は、各地を巡り歩き、函館の臥牛山下船玉社畦に居住して詩人として多くの詩を書き残す。
元町に住んでいた恭平は「函館有名一覧」の中に詩人として名を連ねている。函館で過ごした十有余年こそ人生で最も充実し、安らぎの日々だった。「函館雑感」は自らの人生を振り返りながら、戊辰戦争の戦死者を悼んだ詩である。
明治20年代後半より弟の世話になるため、函館から室蘭へ移住した。
明治35年1月5日、波乱に満ちた人生に幕を閉じた。享年73歳だった。