上田 仁 (うえだ まさし) 1904年~1966年
日本交響楽団のファゴット奏者から、東京交響楽団の常任指揮者を務めた大野町が生んだ音楽家。
明治37年12月9日、大野村西上町(現本町200番地・給食センター)にて医師上田春庭を父として生まれる。大正6年3月、大野小学校を卒業。11年、東洋音楽学校ピアノ科を卒業し、14年山田耕筰主宰の日本交響楽協会に入りファゴットを学ぶ。
昭和元年から17年間、日本交響楽団のファゴット奏者を務め、コロンビアや東宝映画の演奏にも活躍した。その後、ローゼンシュトックに指揮法を学び、20年東宝交響楽団の指揮者となる。
21年5月14日に日比谷公会堂で行われた東宝交響楽団の旗掲げ演奏会を指揮し、自身のデビューを果たした。東京交響楽団へと成長してからは、39年まで常任指揮者を務めた。
多くの現代曲、特にソビエト作品の初演紹介を行った貢献で24年に毎日音楽賞を受け、31年にアルゼンチン国立放送局から特別指揮者として招かれ、33年には、ソビエト文化省の大臣ミコヤン氏よりパテコートナヤ・クラーマタ「名誉証書」(ソ連で社会主義的な優位者に与える賞状)を贈られた。
その賞状には、”日本におけるソビエト連邦の音楽文化の普及と、1958年10月から12月までのソ連邦における音楽演奏(旅行)の成功に対して”と書かれている。この年、ソ連の他にもフランス、アメリカ、その他多くの国を音楽行脚している。
40年には、札幌交響楽団定期演奏会に2回登場し、5月の第40回ではショスタコービッチの「交響曲第9番」と「森の歌」、12月の第46回ではベートーヴェンの「交響曲第9番」を指揮している。
1年後の41年12月26日、大阪にてピアノ指導中に急死した。
交響楽指揮者として活躍した上田仁は、昭和12年母校大野小学校の創立60周年記念に校歌を作曲。26年4月27日、東京交響楽団は青柳小学校において演奏会を行っている。
指揮者に近衛秀麿と上田仁、ピアノに井口基成、ヴァイオリンに諏訪根自子の令妹、諏訪晶子があたった。当日のプログラムは、ロッシーニ・”セヴィラの理髪師”序曲、メンデルスゾーン・ヴァイオリン協奏曲ホ短調、ベートーヴェン・ピアノ協奏曲第5番”皇帝”、コリオラン序曲、交響曲第5番”運命”であった。