木村 捷司 (きむら しょうじ) 1905年~1991年
北方民族を描き、日本の風土を描き、世界を歩いて、人と自然の内奥に迫った”情熱と力”に充ちた画家・木村捷司。
明治38年9月9日、鍛治町10番地(現・弁天町6)にて網元の木村松太郎、ハナの次男として生まれる。
明治42年、4歳の時に父が漁業権を得て、一家で樺太亜庭湾内一ノ沢に移り、そこで少年時代を過ごす。
大正6年、樺太庁立大泊中学校に進学する。12年には、医師の道を志し、北海道大学予科医類に入学する。しかし、この時代、捷司を虜にしたのは、医学ではなく、むしろゲーテやハイネ、ドストエフスキーといった文学作品、さらには、当時「白樺」が盛んに紹介していたゴッホをはじめとする美術の世界であった。美術に対する熱意は次第に捨てがたいものとなり、北大を2年で中退し上京する。
昭和2年、川端画学校に学び、東京美術学校(現・東京芸術大学)を受験、2度目で合格する。
東京芸術学校で同期であった伊勢正義は、当時の捷司の印象を「重厚、寡黙、静かに深く哲人の如く考えている…孤高の画家の風格があった」と語っている。在学中の作品「若き日の自画像」などは敬愛したというレンブラントへの傾倒をうかがわせる。
昭和6年、東京美術学校を卒業する。自らの資質が東京には合わないと考え、生まれ故郷の函館に戻り、函館実践高女で教職に就く。13年、教職を辞し、少年期を過ごした第2の故郷ともいえる樺太へと出発する。
そこで北方民族の人々の生きる姿に感銘を受け、終戦を迎えるまで繰り返し樺太を訪れ、彼らと生活をともにしながら、その姿を克明に描き出した。
昭和17年、捷司は戦前に移り住んだ七飯町にアトリエを構え、落ち着いた田園生活を営みなから、新たなる画業の出発を始めた。身近な風景に題材を求め、国内の四季折々の風景や、日常の人々の生活する姿を描きはじめた。
昭和45年、ヨーロッパへの取材旅行へ出発する。ギリシャのアテネに降り立ち、イタリア、スペイン、フランスと巡る2ヵ月余の旅だった。異文化と直接に触れ、それが大きな刺激となり、新たなる制作へと向わせた。
その後も、毎年ヨーロッパを取材し、51年には、パキスタンからバングラデシュ、トルコへとシルクロードをたどる旅に出た。その後もモロッコ、チュニジア、エジプトといった北アフリカ諸国、イスラエル、ペルー、そして亡くなった年の平成3年にはロシア、バイカル地方へと、まさに、その画業の最後まで、旺盛な制作意欲に燃え、広範囲に渡って取材旅行を続け、力強い筆致、色彩を持って描き続けた。
美術評論家・加藤玖仁子氏は木村捷司の人と作品を特徴づけるものとして「対象物の本質をとらえる確かな眼、碩学と呼ぶにふさわしい博識、実地調査に基づく新鮮な感興と出会いの体験を尊重する誠実な姿勢、それを伝え得る熟達した表現力」と評する。
平成5年、七飯町鳴川に「木村捷司記念室」が開設され、毎年4月より11月までの毎日曜日、約60点の作品を公開している。