小林 重吉 (こばやし じゅうきち) 1825年~1903年
北海道のみならずわが国の商船教育に大きく貢献した実業家であり教育者。
小林重吉は、文政8年1月箱館に生れる。幼名を庄五郎と言った。5代の祖庄兵衛は陸奥国北郡大畑村の人で、寛政年間松前に渡り、その子半次郎の時箱館に転住した。半次郎の子寅五郎は、文政年間東蝦夷地三石場所(現日高支庁三石町)請負人となった。
安政年間今の大野町に新田20町歩を開発し、また赤川にあすなろや杉を植林した。文久2年私費をもって願乗寺川に鳥見橋を架け、後架け換えの時用材23石を寄附した。
明治元年町年寄を命じられ、また箱館戦争で旧幕府脱走軍が港内に敷設した鋼索を自己所有の船を使用して排除した。更に箱館山裏の寒川から新政府軍を誘導して奇襲を成功させ、勝利の一端を担った。
これによって後々まで官の信用を得た。またこの年、蛯子友輔が函館山の上より水道を開掘したが、資金が尽きて中止したのを自費1,600円を投じて工事を遂行し、汐見町、元町、会所町に清水を供給した。
明治3年大洲藩所有の西洋形船洪福丸(239トン)を購入し、万通丸と改称して、物産運搬をした。本道民で西洋形船を所有したのは重吉が最初であった。一方船員養成の必要を認め、明治9年8月長男友八の学友、吉崎豊作を青森から講師として招き三石郡姨布村の支店において生徒を養成させた。
翌年教師および生徒を函館に移し自宅において無月謝で夜学を始めた。北海道における航海術の指導は安政3年、箱館奉行支配諸術調所で武田斐三郎が教授したのが最初であるが、この吉崎豊作は武田の教え子であった。
後田中正右衛門、村田駒吉等と謀って次第に拡張し、私立函館商船学校を設立し、16年に県立に移管された。これが庁立函館商船学校の前身であった。
重吉はまた漁具、漁網改良を試み、三石郡姨布村に刻み昆布の製造所を設立し、清国(中国)への昆布輸出の基礎をつくり三石昆布として全国的に有名になった。明治14年9月東川町に移転し、益々その業を盛んにした。
その他学校、病院の設立、橋梁の架設、窮民の救済等枚挙にいとまがなかった。明治36年4月30日78歳の高齢で歿した。
大正4年11月従五位を贈られた。