熊谷孝太郎 (くまがい こうたろう) 1893年~1955年
函館の街に魅せられ、1910年代から30年代前半にかけて、その路上で撮影(ストリート・スナップ)を続けたアマチュア写真家、熊谷孝太郎。
明治26年、父・清太郎、母・ヨシの長男として上磯町(現・北斗市)の裕福な地主の家に生まれる。
明治31年、父・清太郎が急逝し、5歳で戸主となる。上磯尋常高等小学校卒業後、道立函館中学校(現・函館中部高等学校)に入学するも結核のためにやむなく中退。静養のかたわら短歌やヴァイオリン演奏などの趣味に親しむ青年期を送る。
20代で写真を本格的に始め、田本写真館や池田写真館のプロ写真師らとも交流しながら、家族の日常や身のまわりの光景へレンズを向けていく。現在確認されている最も初期の撮影ネガは、1910年代前半、新妻すずを冬の函館市街で撮影した1枚で、引き続き、妻を繁華街のさまざまな路上で撮り重ねることで、孝太郎のカメラアイは独特な個性を帯びるようになる。
以来、ほぼ一貫して手持ちの暗箱カメラを使い、路上を行き交う人々を撮り続ける。当時、アマチュア写真家の間では絵画的な「芸術写真」が主流となっていたが、そうした状況の中ではきわめて例外的な、ストリート・スナップの試みに専心していく。
その頃の函館は、本州と北海道をつなぐ交通の要衝として、また大陸との交流の玄関口、北洋漁業の基地として北日本最大の賑わいを見せる都市で、熊谷孝太郎の写真群には、そうした時代を生きるさまざまな人間の姿が交差している。
そこには、ロシア革命を逃れて当地へ滞在中の亡命ロシア人、また、世代や社会階層の異なった女性たちの仕草や表情が、豊かな魅力をもって描き出されている。と同時に、彼の視線は、街を彩る看板や広告のサイン、記号のありよう(=「電気肉なべ」「中将湯」「クレームレート」等々)へ向けても、とても敏感な反応ぶりを示している。
これらの写真に浮かぶ街路や建物は、昭和9年の函館大火でそのほとんどが焼失してしまい、函館の景観は大きく様変わりを余儀なくされるが、ほぼ同じ頃から彼の関心もまた他へ移って、函館市街を撮影する機会は少なくなっていく。
生前、自ら撮った写真を発表した形跡はほとんど見当たらなく、内なる衝動に促されるままに、きわめて個人的な無償の行為として、これらの写真を撮り続けていたと考えられる。
没後、遺族によって保管されていたネガ原板の存在が、地元新聞や郷土史家らによって注目され、平成4年に発行された「函館都市の記憶」で一部が紹介され、13年より「はこだてフォト・アーカイブス」が再検証に取り掛かり、二千数百枚に及ぶ原板の可視化作業をすすめ、17年東京写真月間の招待展示、19年写真集「熊谷孝太郎はこだて記憶の街」刊行により広く注目されるようになる。
昭和30年、画家、芸能人、力士などに慕われ余生を過ごした熊谷孝太郎は、その人生を閉じた。享年62歳。