国松 登 (くにまつ のぼる) 1907年~1994年
北国の詩情を描き、道内画壇の重鎮として活躍した国松登。
明治40年5月6日、函館区鶴岡町(現・大手町)で父美登利、母キクの六男として生まれる(男6人女1人の末子)。父親は秋田県の出身で家業の木地屋を手伝っていたが、結婚後函館に移住し、書画骨董などを商っていた。
しかし、国松家にとって函館は安住の地とは言えないところだった。明治40年8月25日、生まれてすぐに1万2千戸以上を焼いた函館大火があり、家は丸焼けとなった。その後も火事のために家を転々として大正3年には宝小学校に入学する。ここでまた火事に遭いとうとう函館を去ることになる。両親と1人の兄と4人で小樽の山田町に移住する。
大正13年、小樽区立堺尋常小学校高等科を卒業し、上京する。木炭屋に間借りして、新聞配達をしながら神田の電気学校の夜間部に通う。
大正15年19歳の時、病気のため帰郷し北海水力電気(現・北電)に就職する。夜は三浦鮮治主宰の裡童社という絵のグループの石こうデッサン会に通い、絵の勉強を始める。
昭和2年、北海水力電気を退職して再び上京。そのころ帝展に入選して名をあげていた平沢大嶂(貞通)のすすめにより、二科会会員の赤城秦舒に師事し水彩画を学ぶ。赤城秦舒は水彩画の泰斗といわれ、国松登の初の先生らしい先生であった。エンピツで形をとったりせず、じかに透明水彩の色を重ねて徐々に色を複雑にしていく技法はこの時覚えた。
昭和7年、北海道美術協会展(道展)に初入選する。この年、三岸好太郎の知遇を得る。翌年の4月、帝国美術学校(現・武蔵野美術大学)西洋画科に入学する。
昭和5年に独立美術協会が発足され、第2回独立展から7回まで出品する。
昭和12年、東京と小樽を行き来する生活から小樽定住を決意し、2月には越後ヨシ(良子)と結婚する。
昭和13年、国画会の立石鉄臣、春陽会の原精一といった親しくしていた人たちから「キミの絵は独立では地味だよ。もっと自分を生かすためには国展の方が…」と言われ独立美術協会から国画会に移る。
昭和14年3月、帝国美術学校を卒業。国展で国画褒状を受ける。また翌年には国展で国画奨学賞を受賞し、国画会の支持者である福島繁太郎と知り合い、以後親交を持つ。6月には、従軍画家として満州、朝鮮方面に赴く。
昭和23年、小樽丸井今井の移動水族館で眼のつぶれた黒鯛を見た時、ふと若山牧水の歌、“海底に眼のなき魚の棲むといふ眼の無き魚の恋しかりけり”が頭に浮かび、目とかヒレとかを描かないでも魚は描ける。
目のない魚の形だけで、哀愁みたいなものを表現できるのではと「眼のない魚」を着想し、制作を始める。「眼のない魚」のあと「雪野」、「雪原」などをしばらく描き、「氷人」から「氷上のひと」シリーズに至る。晩年は象や鯨など大きなものを描くことに情熱を燃やしていた。
昭和33年、20年余り住みついていた小樽を離れ、札幌に移る。翌年に北海道文化賞(芸術部門)を受賞する。他にも、51年、紺綬褒章。54年、勲五等瑞宝章(地方文化功労)。61年、紺綬褒章。同年、北海道新聞文化賞(社会文化賞)を受賞する。
平成6年4月18日、国画会審査のための上京中、心筋梗塞により、駿河台日本大学病院で死去。享年86歳だった。
平成7年、国松登の作品は北海道立近代美術館に「星月夜」等29点、北海道立函館美術館に「樹氷」等5点、芸術の森美術館に「氷上のひと」等10点、市立小樽美術館に9点、真狩村教育委員会に11点収蔵された。