栗本鋤雲 (くりもと じょうん) 1822年~1897年
市立函館病院の前身となる箱館医学所を創設し、広範囲にわたる科学的知識と、すぐれた政治的識見とにより、奉行所を補佐して道南開拓の基礎を築いた、栗本鋤雲。
文政5年3月10日、江戸幕府の医官をしていた父・喜多村槐園の三男として江戸小川町裏猿楽町(現・千代田区山猿楽町)に生まれる。名前は鯤(こん)、幼名は哲三と称し、後に瑞見(ずいけん)と改めた。文官の職になって瀬兵衛(せへえ)と改称し、号は匏菴(ほうあん)、官を退いてから鋤雲といった。
天保11年に昌平坂学問所に入学する。ここは幕府の大学で、天下の秀才が集まっていた。
嘉永元年、幕府の奥詰医師であった栗本瑞見の養子となり、栗本姓を継いで六世瑞見を名乗る(奥詰医師とは、将軍家を中心に医療行為を行う幕府お抱えの医師)。奥詰医師に昇格した鋤雲はさらにその優秀さを讃えられ、幕府から褒賞を受けるなど、日本屈指の医師として輝かしいスタートを切る。
ところが、その人生に陰りが見え始めたのは、35歳の時だった。長崎の海軍伝習所で練習船に使われていたオランダの「観光丸」に乗船を出願し、生まれて初めて外国船に足を踏み入れる。この出来事が大問題になる。西洋医学を学ぶことを禁じられている幕府の医師が、西洋の船に乗るとは言語道断と奥詰医師の職を解かれ、江戸城から追放される。謹慎生活1年を経て、下されたのは蝦夷勤務だった。
安政5年6月、一家をあげて蝦夷地に移る。妻が左遷と嘆いた箱館行き。これが結果的に、人生の一大転機となる。封建制度の強い江戸から抜け出したことが、鋤雲の沈んだ心を明るく伸び伸びとさせた。蝦夷には本州には見られない薬草が豊富にあり、幕府に献上したところ、将軍が使う薬草に指定される。調査した結果、七重村(現・七飯町)が、気候も地質も良いことが分かり、ここに薬園を開き、「七重薬園」と名付けた。逆に蝦夷に少ない松や杉の苗木を植え、五稜郭周辺の道路、湯の川街道や七重街道にも植樹する。
文久元年、北海道最初の病院、箱館医学所を創設する。これが市立函館病院の前身となる。2年、こうした数々の事業が幕府の耳に届き、医師から士族の籍に改められ、箱館奉行組頭に任じられる。
文久3年10月、江戸へ呼び出される。鋤雲は、昌平坂学問所の頭取を命じられ、外国奉行に取り立てられる。これは箱館滞在中、フランス領事のカションと互いの母国語を教えあったことで親交を深めた功績があったからであった。
慶応3年、日仏親善大使としてパリに派遣される。パリ滞在中に大政奉還と江戸幕府が滅亡となり新政府から政府士官を要請されるが、「二君に仕えず」の名言を残し、表舞台から消える。
明治5年、ジャーナリストとして再び世に出る。毎日新聞社を経て翌年、報知新聞社に招かれ、主筆を務める。64歳で退職するまで健筆を奮った。
病院建設のほか、薬園づくり、綿羊や牧畜、養蚕の普及、久根別川の通運など、道南の発展に尽力した鋤雲は、明治30年3月6日、本所の自宅で76歳の生涯を終えた。