神 彰 (じん あきら) 1922年~1998年
1950年代から60年代、日本に呼ぶのは難しいときれていたソ連のポリショイ・バレエ、レニングラード交響楽団、ボリショイ・サーカスなどの公演を実現させ、一世を風靡した、元祖「呼び屋」。
大正11年、函館随一の株屋の四男として生まれる。神が旧制函館商業を卒業する頃、父は相場で失敗。単身上京し、画家を志して文化学院に学んだが、戦争が激しくなり、それどころではなくなる。
親類の誘いで満州に渡り満銀の外部団体で旅行ガイドのような仕事をする。終戦の年に現地召集となるが、敗戦の知らせを聞くと、軍隊を逃げ出し、居留民に混じって、「長春日本人新聞」という邦字紙を発行、これが不安な人の心にアピールして、大いに金が入ったという。
昭和22年に帰国し、函館新聞の記者になったが、学生の頃から抱き続けた画家への夢は断ちがたく、25年、上京する。
昭和28年31歳のある日、満州で知りあった芸術青年たちとたむろしていた時、1人が「バイカル湖のほとり」を歌い出した。心に滲みわたるこの歌を歌うドン・コザック合唱団を日本に呼ぼうと、神は走り出した。「日本人は必ず熱狂する」と神は直感した。
ニューヨークに電話すると、あっさりとOKがとれた。しかし、手元に資金はない。そこで神は考えた。まず、友人から金を借りて預金し、それをもとに銀行から金を借り、紺色に輝くクライスラーを買った。銀行はとめたが、「これで金を作ってみせます」と押し切った。
効き目は絶大だった。
結局3千万円近い金を集め、新聞社も共催することになった。だが、満員続きにもかかわらず経費がかかり大赤字を出した。1千万円はあった。この借財が、一度でやめようと思っていた神を「呼び屋」の世界に引き込むこととなる。
神は、自分の仕事を単なる興行とは考えず、文化・芸術使節の交流と位置づけた。
神の名前を不動にしたのは、交流第2弾として翌年来日したボリショイ・バレエ団。名プリマ、レペシンスカヤの舞に数万人の観客が魅了された。約1ヵ月の公演で借財は完済した。
昭和33年には幻のオーケストラと言われたソ連のレニングラード交響楽団、ボリショイ・サーカスを招へいし、成功を納め、文化交流の3本柱ができ、ソ連との文化交流で神彰は「赤い呼び屋」として有名になった。これらのプロモートは多くの富をもたらした。ソ連のタレントは国家に属する人民芸術家で文化使節だから出演は無料であった。
昭和35年にはアメリカからアート・ブレーキーとジャズ・メッセンジャーズを呼び、日本でモダンジャズのブームを巻き起こした。
昭和37年、人気作家の有吉佐和子と結婚。結婚生活はすれ違いで、食卓を囲むことも少なかったが、一粒種の玉青も生まれ円満だった。佐和子も手記のなかで「幸福の絶頂だった」と語っている。
しかし、結婚の引き出物になればと呼んだ「大西部サーカス」が失敗、1億円以上の赤字を出す。佐和子の作家活動に支障をきたさないようにとの神の強引ともいえる配慮から2年余りの結婚生活に終止符を打つ。
昭和48年、居酒屋チェーン「北の家族」第1号店を開店。再婚した農林大臣平野力三の次女、義子が始めた店だった。義子は開店後まもなく、がんで亡くなる。だが、悲しみに沈んではいられなかった。
引きこもっていた神が、店の陣頭指揮を執ることになる。居酒屋ブームのはしりとして「北の家族」は波に乗り、都内に41店を展開、ほかに「ぺんぎんずばー」などの系列店も出した。
平成10年5月28日、故大宅壮一に「戦後の日本で起こった奇跡のひとつ」と評された元祖「呼び屋」、神彰は永遠の眠りについた。