函館市文化・スポーツ振興財団

ジョン・バチラー (John Batchelor)  1854年~1944年

アイヌの生活改善・学校・病院の設立に尽力し、アイヌの父として敬愛されたイギリス人宣教師、ジョン・バチラー博士

ジョン・バチラー

1854年(安政元年)3月20日、ロンドン南方サセックス郡アクフィールド村で、11人兄弟の6番目として生まれる。小学校卒業後、ロンドンのイズリントン神学校、ケンブリッジ大学神学校に進む。そして、母校の勧めにより、香港にある宣教師養成のための聖ポーローカレッジに入学する。

1876年(明治9年)9月22日、バチラーは、サザンプトン港を出港、11月11日、香港に到着する。しかし、3ヶ月ほど過ぎた頃から、香港の気候風土が身体に合わず体調を崩し、マラリアを患う。翌年の3月15日、英国と気候風土の似た転地療養を勧められ、この年の5月1日函館に到着する。函館では、聖公会北海道伝道の先駆者ウォルター・デニング司祭の指導を受け、まず日本語の勉強を、後にアイヌ語の勉強もはじめる。そして、アイヌの青年と出会い、日本の先住民アイヌの人たちが悲惨な生活と病に苦しんでいることを知り、当時の日本人の差別・偏見に満ちたアイヌ観に衝撃を受ける。

1881年(明治14年)、本国へ戻り、ケンブリッジ大学内のリデルホールで特別研究をし、ロンドンの母校で神学を研鎖する。1883年(明治16年)4月に再び函館へ。翌年の元旦、函館宣教師会代表ウォルター・アンデレスの妹ルイザと結婚する。この年に、アイヌの風俗習慣などを記した書物「蝦夷今昔物語」を処女出版する。これまで和人があまり問題としなかったアイヌの生活が、世界に紹介されることとなった。

1886年(明治19年)5月、布教活動のため、函館の住居を幌別に移して定住する。1892年(明治25年)、札幌に転居。さらに伝道の幅を全道各地に拡げていく。

1914年(大正3年)、札幌にアイヌの子弟を収容する寄宿舎「アイヌ保護学園」を建てる。これより先、「アイヌ教化団」を組織し、平取にアイヌの保育園を建て、1931年(昭和6年)には「バチラー学園後援会」が出来る。

1936年(昭和11年)4月6日、夫のアイヌ教化の熱情を暖かく見守ったルイザは天国へ旅立つ。当時の北海タイムスは「異郷日本に咲ける英国婦道の亀鑑全生涯をアイヌ教化にささげ、バチラー博士夫人昇天」という大見出しで賛嘆報道した。

第二次世界大戦直前の1941年(昭和16年)11月19日、愛妻を亡くしたバチラーは一人寂しく北海道を去った。

1944年(昭和19年)4月2日、アイヌ民族保護を訴え続けたジョンーバチラーは、郷里の生家で逝去した。91歳であった。

函館ゆかりの人物伝