瀬川伸 (せがわ しん) 1916年~2004年
戦後、マドロス、股旅もので一世を風靡し、2度のNHK紅白歌合戦に出場した、演歌歌手瀬川瑛子の父・瀬川伸。
大正5年10月24日、蓬莱町で蘭亭という料理屋の次男として生まれる。
昭和11年、函館商業学校(現・函館商業高等学校)卒業。翌年の8月、函館日日新聞社主催の「歌謡新人コンクール」に出場する。
この時審査員を務めた江口夜詩、高橋掬太郎に認められ、流行歌手になることを志し、上京して江口夜詩門下となる。
当時、流行歌手を育成する学校を主宰していた江口夜詩は、瀬川を自らの口利きでコロムビアレコードに紹介し、松竹映画「春雷」の主題歌「街の姫百合」をミス・コロムビアとデュエットし、レコードデビュー。
当時としては松竹もコロンビアも力を入れた作品でのデビューは破格の待遇であったが、瀬川伸は柔らかい声質で艶っぽく叙情的なため軍歌には不向きで、戦争中は鳴かず飛ばずであった。
昭和24年、キングレコードに移籍し、「パラオの真珠取り」を発売するもののヒットには結びつかなかった。
昭和25年、キングレコードに買収されていたタイヘイレコードが独立したことを機に、再度移籍。翌年に発売した「上州鴉」が大ヒット。瀬川伸としての初ヒットとなった。
その後、「天龍鴉」「甲州鴉」といった股旅ものの他に、「バッテン港の蒼い船」「港神戸のマドロスさん」「港シスコのマドロスさん」といったマドロスものもヒットさせ、紅白歌合戦にも出場するほどの人気歌手となった。
その後、娘たちを歌手に育てようとするが、次女である瑛子のみが父に従い、小学生の頃から自らの舞台に前座として上がらせた。
昭和31年頃を最後にマーキュリーレコード(タイヘイレコードが社名変更)でのレコーディングから遠ざかり、マーキュリーの倒産後はフリーの歌手として、昭和40年頃まで歌手活動を続けた。
娘の瀬川瑛子は「長崎の夜はむらさき」でヒットを出すが、長く下積みを続けていた。その後、「命くれない」で大ヒットを飛ばし、紅白歌合戦に出場した際には、親子二代での紅白出場として話題となった。
平成16年3月14日、心不全のため死去。享年87歳であった。
昭和38年に函館ゆかりの作詞家・高橋掬太郎の詞に飯田三郎が曲をつけ、瀬川伸がキングレコードから発売した「函館ステップ」が時を超え、函館観光大使のシンガー池田さなえによって平成の函館に甦える。