3代目 杉浦嘉七 (すぎうら かしち) 1843年~1923年
北海道最初の銀行を創立して初代頭取となり、函館区の初代区議会議長、函館商工会の初代会頭として、函館の政財界の立役者となった3代目杉浦嘉七。
天保14年4月5日、初代嘉七の長男與七の長男として内澗町に生まれる。名を恒次郎と言った。
2代目嘉七を継ぐはずだった父の與七は江戸の生まれで、初代嘉七に伴われて箱館にやって来た。場所請負人の父について家業を手伝っていたが、恒次郎が6歳の時、若くして病死。祖父の家業「福島屋」を引き継いだ井原忠三郎(後の2代目嘉七)を継父として育てられた恒次郎は、祖父が得ていた松前藩の士籍を受け継いで俸禄を得る。
恒次郎は漢学を学び、武士としての教育を受けるが、健康に優れず、継父の勧めもあって士籍を返還する。そして商人として家業を受け継ぐことになる。
慶応2年、23歳の時、2代目嘉七は引退して家督を恒次郎に譲り名を忠三郎と改める。恒次郎は3代目嘉七を襲名し、家督を相続する。
明治7年3月、箱館戦争で崩壊した弁天町の復興を願う住民の要望に応えて、私財を投じて西濱町海岸の埋め立てを実施する。翌年の10月に完成し、嘉七の希望通り「幸町」と名付けられ、昭和40年の住居表示変更で弁天町となる。
明治8年3月、函館区民の就学や学校建設を促進するために「学務世話係」が置かれ白鳥衡平、井口嘉八郎と共に任命され、6月函館支庁に公立学校の設立を提言、翌年の6月には自宅を開放して校舎に提供する。次の年には公立内澗学校が開校。当初は毎日出勤して学務に携わる。
明治10年、新聞の発行を目的とする印刷所北溟社を創設する。翌年の1月7日、北海道初の民問の手になる「函館新聞」が発刊される。また、北海道最初の銀行創立に参加。12年、第百十三国立銀行が開業となり、初代頭取となる。26年、小樽支店が開業となり、同年創業以来15年にわたる頭取を辞任して取縮役となり補佐にあたる。
明治13年1月1日、函館区役所が設置され、戸長6名の1人に選任され、初代議長に選ばれる。
財界や政界で活躍してきた業績から幾多の表彰や賞詞を受けるが、特に明治14年の天皇ご巡幸に際し、常野正義、山田文右衛門、栖原小右衛門らとともに、名誉ある賞詞を賜る。
明治22年4月24日、第百十三国立銀行頭取の嘉七外39名により「函館商工会設立願」を北海道庁長官に提出。6月に役員選挙が行われ、会頭に選出される。
明治29年1月15日、引退して家督を豊太郎(養子)に譲り、隠居する。そして、名を「允(まこと)」と改め、東京に移り、鎌倉に屋敷を構えて、盆栽や俳諧を楽しんで悠々自適の余生を送る。
大正12年6月16日、鎌倉の隠居宅で静かに息を引き取る。鎌倉で火葬された後、妻の眠る函館・高龍寺の墓に入る。享年81歳であった。
初代と2代目の嘉七は漁場の請負人として、専ら家業の「福島屋」の繁栄に努めてきたが、3代目嘉七は明治維新の渦中にありながら、時代の変化に順応し、家業の改革を断行。近代化にも対応し、福島屋の財力を函館の発展のために貢献した。