北海道写真界の功労者。彼の記録写真は現在も高い評価を受けている。三重県熊野の生れ。万延元年長崎より箱館に渡る。壊疽(えそ)によりロシア病院で右足切断する。領事や露医ゼレンスキーより写真術を学び明治元年開業。道内初のガラス屋根の写真館は、名物であった。門人たちは、道内各地で活躍した。
天保2年4月8日、紀州牟婁郡神川村(現・三重県熊野市神川町)の農家に生まれる。のちに別名音無榕山(おとなしようざん)と名乗っているが、「音無」は郷里を流れる音無川(現・熊野川)にちなむものという。
医学を志して23歳の時に長崎に赴き、蘭方医吉雄圭斎(よしおけいさい)の下僕となり、ここで医学や舎密(せいみ・化学のこと)を学びつつ西洋科学の諸事情に触れる。
安政6年、長崎奉行所通詞松村喜四郎たとともに箱館に赴く。開港したばかりの箱館では、各国領事館との交渉に箱館奉行所の通訳だけでは対応できず、幕府は長崎奉行所勤務の練達の通訳を箱館に転勤させる。荒木卯十郎、堀伝造など6名が出張したが、松村喜四郎もその上人だった。
ところが、しばらくして右足に悪性の壊疽にかかり、ロシア医師ゼレンスキの手術を受け右脚を切断する。治療中、ゼレンスキから写真技術の手ほどきを受け、慶応2年頃から写真師として活動を始める。横山松三郎や木津幸吉とも研究しあい、人物や風景も撮るようになる。
翌年には、既に当地で営業していた写真師木津幸吉とともに松前に赴いて、松前城(福山城)と藩士らを撮影している。中でも、城は旧式築城としてはわが国最後のもので、明治8年にその大部分を取り壊されているため、それらを写した写真は、今では貴重な記録となっている。
明治2年、大工町(現・末広町)に北海道で初めての写真館を構える。同館は採光用ガラス窓のついた本格的なもので、ここから多数の有名な写真師を輩出し、研造は函館のみならず、北海道における指導者的立場の写真師であり功労者であった。箱館戦争の際に撮られた洋装姿の土方歳三は、おそらく田本研造が撮影した写真の中でも最も有名なものだろう。
明治4年、開拓使の依頼で、門弟の井田侾吉を伴って小樽・札幌などの開拓状況を出張撮影する。翌年、函館出張開拓使庁から東京に158枚の写真が送られ、政府に北海道開拓事業の推進状況を伝えるとともに、展示にも用いられる。6年にオーストリアで開催されたウイーン万国博覧会には、開拓使の写真が出品される。その後、開拓使の写真は研造の門下から出た武林盛一らに引き継がれていく。
大正元年10月21目、朝早く起き、いろり端で好きな煙草を喫うことが日課になっていた研造はこの日の朝はそれがなく、すでに亡くなっており、大往生であった。享年81歳であった。
研造が撮影した写真の中でも、特に北海道開拓使時代の記録写真は、日本写真史上において現在も高く評価されている。
脚が不自由なこともあってか、研造は一度も郷里の熊野へは帰ることはなかった。昭和56年、鬼ヶ城に顕彰碑が建てられ、また、田本研造の名を冠した写真コンテストが開催されている。
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