明治28年1月7日、父・田中喜三郎、母・サダの長男として函館に生まれる。幸小学校を4年で終えて、高等科のある弥生小学校に転校し、大正2年、函館中学(現・函館中部高等学校)を卒業。函館築港事務所に勤める。
大正5年20歳の時、三井物産函館出張所に入社する。木材部勤務となり、「これからゼニを稼ぐぞ」と張り切りすぎて、盲腸炎にかかり、タンカで函館病院に担ぎ込まれる。体が回復すると出張所本部で経理を担当、ここから物産の本当の仕事を覚えることとなる。
当時手掛けた大きな仕事は、ひとつにロシア貿易で、ロシア系の商社「デンビー商会」のジョージ・デンビーが窓口になっていた。そして次が、缶詰工場。当時、日本には堤商会出資の函館製缶と東洋製缶の2工場が空き缶市場を独占していた。
大正9年、函館製缶は失火で焼け、小樽に主力工場の北海製缶をつくる。このままだと北洋の魚は小樽に持って行かれると危機感を覚え、函館の産業界のためにと、誠一郎と三井物産は全面協力を約束し、14年函館資本の本格的工場、日本製缶を誕生させる。缶詰機械は米国、ブリキ板は英国から輸入した。これで函館港は全国で8,9番目の貿易港にのし上がった。その後、日本製缶は、昭和16年に統制経済で東洋缶詰に吸収合併された。
昭和15年、三井物産の函館支店長代理となる。18年には北海道青果物輸出協会の事務局が支店の中に置かれ理事長となる。国内は戦時色が濃くなって貿易の仕事は出来にくくなり、もう東京に行く以外にポストがなくなり大家族での転勤は無理と、この年の春、三井を退職して函館市内の船矢造船鉄工所の専務となる。この会社は、軍用の輸送船の船体部分を作っており、当然エンジンなど機械据え付けの工場が必要となり函東工業を創立し、社長となる。
続いて宝産業、第二物産などを興す。ソ連との経済交流の糸口をつくり昭和42年から函館商工会議所会頭を三期務める。
昭和35年、函館空港が完成。8月19日に北日本航空の一番機が飛ぶ。40年代からは、函館空港の整備と函館湾工業基地開発に尽力する。45年、函館空港ビル創設とともに社長に就任する。46年勲五等双光旭日章受章。49年函館市功労者表彰を受ける。また、内閣総理大臣より紺綬褒章を受ける。
昭和61年7月30日逝去。享年91歳。
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