函館市文化・スポーツ振興財団

谷 徳太郎 (たに とくたろう) 1875年~1936年

昭和9年の大火で人命・財産を失くした函館市民の復興を願って”港まつり”を提唱した真の経済人・谷徳太郎。

明治8年2月10日、函館市に生まれる。函館商業学校第3期卒業生にして早くから米穀商を営み、商業取引には深く経験を有し、後に函館海運株式会社を創立して専務取締役となる。又、昭和3年から11年迄の3期にわたり函館商工会議所議員に選出される。その他にも、公益心に厚く函館水上消防組の創立者として、久しく組頭の要職にあり、消防組発展のために非常な努力をした函館水上消防組の恩人でもある。
徳太郎は、常に社会公益のための尽力を惜しまず、北海道産物の南洋方面へ進出する機会を進めるために、見本市船を計画して、北海道産物を南洋各地に紹介する労を採るなど、真の経済人として当時の産業界への貢献は大変なものがあった。
昭和7年暮れの三陸沖の大津波の災害では数多くの犠牲者や財産の被害が伝わるや、函館毎日新聞社と協力して義捐品を募集し、同社の運送船に満載、罹災地に届け人々から救いの神として感謝を受け、岩手県知事から感謝状を受けた。
昭和10年4月22日、函館開港記念日制定協議会が開港記念日を7月1日に決定した。安政6年6月2日に横浜、長崎、箱館と3港が世界の檜舞台に登場した日を太陽暦に訂した7月1日にしたものである。この記念日を設定した前後、徳太郎は坂本市長を市長室に訪ね、開港記念日が設定された折柄でもあり又、開港77年目に当たるめでたい年でもあること、そして前年の3月21日に住吉町から出火し、未曾有の大火となり多くの住民の人命と財産を失った函館大火の復興を願って、神戸、横浜の例に倣って港まつりを開催してはどうかと提唱した。坂本市長は徳太郎の言葉に非常に賛意を表し直ちに秘書に命じて港まつりの行事につき案の作成を急がせた。これが函館市に第1回の港まつりが決行された動機である。港まつりの口火が海運業者から切られたことは港函館の行事としては非常に意義深いことであった。
第1回港まつりは昭和10年7月1日~3日の3日間行われた。西浜岸壁での軍艦拝観、函館公園での懐古展、花電車運行、花自動車行列、オートバイ行列、マラソン、仮装大会等があり、地方からは上磯の大名行列、松前神楽を招待し、函館のみの祭りでなくローカルカラーを織り込んだ道南一帯の「祭り」として行われたことに意義があった。かつてないほどの賑わいで、明治22年の水道祭りをしのぐ行事であった。
昭和10年には函館博物館建設発起人として、岡田、宮崎氏らと共に尽力した。
昭和11年12月18日、真の経済人として郷土の発展に尽力した谷徳太郎は61年の生涯を閉じた。

本文/「ステップアップ」vol.137(2000.8)より
(写真・資料/「函館名士録」深井清蔵発行人、「函館紳士名鑑」函館紹介出版社発行、「函館市誌」佐藤勘三郎発行、「函館人物誌」近江幸雄著)

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