慶応3年6月18日、初代・寺井四郎兵衛と母・千代の長男として函館で生まれる。幼名は信太郎。
初代は、新潟に生まれて25歳で函館に渡り、千代と結婚する。真面目で勤勉な父は、漆器商を皮切りに陶器、金物、雑貨と商いを広げ、財をなす。
明治16年17歳の時、父・四郎兵衛が亡くなり、二代目寺井四郎兵衛を襲名。北洋漁業の発展の波に乗り、鋼鉄、機械、電機、地所と事業の多角化を進め、やがて平出喜三郎、相馬哲平、杉浦嘉七、渡辺熊四郎等と共に函館の高額納税者十傑に入るほどに成功する。
寺井家に伝わる家訓に「ひとつ、金持ちになっても旦那様にはなるな。ふたつ、人様が1000両もうけたら800両、100両儲けたら80両に止めろ。みっつ、死に金を貯めるな」がある。四郎兵衛を生涯突き動かしたのが、この家訓である。
明治32年、寺井家の菩提寺の住職、上田大法から孤児院建設の計画を持ちかけられる。上田大法に相談したのは、人力車屋を営む仲山与七だった。仲山は本業の傍ら消防部長を務める熱血漢で、社会福祉に関心を持ち、貧困者のための救護所を開いていた。仲山が上田に訴えたのは、函館にはたくさんの孤児がいる。この町にある孤児院はロシアやフランスの教会や修道院が開いたものだ。日本の子どもは日本人が面倒を見るのが筋じゃないだろうかと。
人力車屋・仲山与七、高龍寺住職・上田大法、実業家・寺井四郎兵衛。3人は志をひとつにし、施設の名称を「函館慈恵院」と決め、施設開設に向けて動き出す。四郎兵衛は千歳町の土地を提供するとともに、建設費5000円が必要なところ、1500円もの大金を寄付。さらに自ら町内会を回り、寄付を募る。
明治33年11月、創立総会から半年後ついに函館慈恵院は開設される。四郎兵衛は初代会長に就任。開設にこぎつけたものの、運営には多額の経費がかかり、四郎兵衛は常に資金繰りに頭を痛め、寺井家の赤字補填は長く続く。
明治43年には、全国でも例がなかった児童遊園地と児童図書館を建設。
昭和9年の函館大火で焼失するまでの24年間、函館の子どもたちの教育に大いに役立った。
昭和21年、函館慈恵院は函館厚生院と改称になる。
昭和24年、北海道の社会福祉の基礎を築いた寺井四郎兵衛は81年の生涯を閉じた。
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