馬場 民則 (ばば たみのり) 1854年~1908年
江戸に生まれ、幼時期に七飯村に移住。代言人(弁護士)となり、同志と日刊新聞「北海」を発行。函館毎日新聞社を興した馬場民則。死後、知人により函館図書館に「馬場文庫」を付設された。
安政元年、父・八百三の次男として江戸に生まれる。兄を政昭という。
八百三は八王子千人同心(旧甲斐の国武田家の家臣で、徳川家に随身して八王子に駐屯し、半士半農で甲州街道を警備していた一派)を以て3年、二子を伴い七飯村に移住し開拓に従事する。
文久2年、野口太一郎に師事し、元治元年11月、平山鋭次郎に就き学を修める。更に平山金十郎から英式歩兵操練を学ぶ。
明治元年、兄・政昭は、花輪五郎・平山金十郎等と企だて、箱館府庁を襲うとするが、政昭は捕らえられ、五郎は切腹し、金十郎は逃亡する。次いで榎本武揚等が箱館に来るや、之に投じて官軍と戦う。戦に敗れた政昭は金沢藩に預けられる。民則は事なくして止む。これ以降、民則は文事に志し学校に入り和漢学をおさめ、次いで函館ハリストス正教会司祭アナトリー、及び函館学校教師サルトフに就きロシア語を学ぶ。明治7年12月、東京に上り、ニコライに従いロシア語及び教理を学ぶ。
明治9年12月法律に転じ、名村泰三・黒川誠一郎等に就き仏蘭西法律学を学び、10年4月講法学舎に入る。11年第一期代言人試験に合格する。以来磯部四郎に就いて研究し、16年10月函館代言人組合に入り、初めて代言人事務を執る。勉めて正義を以て事を処理し、一般の人からの信用を得、訴訟の依頼が多くなり、重大事件はおおむね民則の手を経るようになる。23年函館代言人組合会長となり、同年区会議員に当選する。26年12月区会議員に再選。29年4月辞職し、函館港改良工事委員を嘱託する。これより先22年5月同志と日刊新聞「北海」を発行。北海道庁拓殖事業に関する悪政を非難し、また地方議会設置の必要を説き有志者を代表して意見書を帝国議会に提出する。また区制施行の必要を説いて地方自治の発達に貢献した。
明治31年5月更に同志と謀り、函館毎日新聞を発行。37年4月、函館区臨時海陸連絡設備調査委員の嘱託となる。37、8年戦争中、軍人家族保護会長に推される。40年小樽に法律事務所を置く。
明治41年2月、訴訟を以て山口県徳山に赴き、途中病にかかり、3月1日京都で客死する。享年55歳。
明治43年3月、3周年忌に際し、知人により生前貯蔵した法律書、戦史等を以て、函館図書館に馬場文庫を付設した。
因みに、考古学者で北方民族研究の世界的な権威者・馬場脩は、民則の三男として函館で生まれている。