深瀬 洋春 (ふかせ ようしゅん) 1834年~1905年
蝦夷地を巡回して我が国初の強制種痘を行い、晩年は自宅で開業し専ら公衆の治療に尽力した深瀬洋春。
天保5年、父・鴻斉(本名・一甫)の長男として箱館で生まれる。本名を貞之といい、函館病院(現・市立函館病院)の第二代病院長・深瀬鴻堂は弟である。
代々羽州(山形県)米沢の医家で、父・鴻斉のとき箱館に渡り開業する。
洋春は江戸の竹内玄同、佐倉(千葉県)の佐藤春海に医学を学び、順天堂の塾頭になる。
安政4年1月、箱館奉行・村垣淡路守は蝦夷地巡視途中の寿都から幕府にアイヌ種痘願を上申、翌月桑田立斎と共に蝦夷地の種痘を命じられる。御雇医師となり5月5日江戸より箱館に着いて村垣淡路守と面談、種痘医として西蝦夷地(桑田立斎は東蝦夷地)、翌5年には北蝦夷地(樺太)に渡り、帰りは斜里まで種痘をして廻る。我が国初の強制種痘であった。
洋春と立斎とが種痘医として蝦夷地に派遣されたことは、単に蝦夷地の重大行事であったばかりでなく、間接的には今日の東京大学の発端に関与している。
嘉永2年8月、長崎で蘭医モーニッケによる種痘が成功し、たちまち各地に普及したが、幕府お膝元の江戸では、幕府医学館に拠る漢方医の反対と、蘭方禁止令とで蘭方医家は手も足も出なかった。そこに蝦夷地からアイヌ間に天然痘流行のため種痘医の派遣方の申請があったので、安政4年江戸で種痘医を募集する。江戸在住の蘭方医家はこの機を逃さず、各地同様に江戸にも除痘館を設けることに成功する。これが安政5年5月7日に落成した神田お玉ヶ池の種痘所であって、後に西洋医学所となり、ひいては今日の東京大学医学部にまで発展する。
その後、2年位町医として箱館で診療をする。
万延元年12月4日、御雇医師となり2人の扶持を給与される。この年に箱館医学所が設立され、頭取の1人となる。
文久元年、武田斐三郎の指揮する亀田丸に乗ってロシア領ニコラエフスクに渡り、同地の長官の病を治療し全治させる。この時のお礼にもらった骸骨、オルゴール、麝香獣(じゃこうじゅう)等を持ち帰り、医学所において医学講義の材料にしたと言われている。
文久3年、下総佐倉藩医師・佐藤泰然(順天堂の祖)の次男として江戸に生まれ、日本初の西洋式病院である長崎養生所開設に尽力した松本良順の門人となる。
明治元年5月、箱館裁判所参事席病院勤任を命じられる。同年10月旧幕府脱走軍襲来の際、清水谷府知事に同行して青森に渡り、官軍病院教授を命じられ、翌2年4月には江差、大野を経て箱館に至り負傷者の手当をする。同年8月箱館府民政方病院一等医官、9月開拓使二等医師となり官立函館病院勤務。翌3年秋に退職し、会所町(現・末広町)で開業する。
明治28年1月、開業医函館医会の会長となる。
明治38年12月23日没す。享年72歳であった。