福士 成豊 (ふくし なりとよ) 1838年~1922年
函館の副基線を測量し、北海道三角測量が全国の測量と結びつく基礎をつくり、函館港湾の測量に従事した続豊治の子。
天保9年、日本初の洋式帆船「箱館丸」を建造した船大工続豊治の子として山之上町に生まれる。旧姓続、幼名卯之吉・宇之吉、通称五郎と呼ばれた。
13年、5歳の時同地の回船業福士長松の養子となり、9歳にして私塾愛池堂に入学、5年ほど学んだ。その後は実父豊治について造船技術を学び、箱館型スクーナー船を建造した。
しかし、高度な造船技術を習得するために英語を学ぶ必要にせまられ、当時の在留米代理領事ダブルュ、アール、ペ-テに英語の指導を受け、さらにイギリス人ポーター経営の商会に5年間勤務し語学力をつけた。
この間、同志社大学の創立者新島襄と出会い、彼の米国へ脱出の力になったことは広く世に知られている。又、イギリス人ブラキストンから、測量・機械・測候・博物学を学んだ。
慶応2年、ポーターの商会を止め、再び造船界に返り、箱館奉行の御船大工棟梁見習となった。
明治元年5月、苗字帯刀を許され、名を成豊と改めた。11月箱館府の外国方運上所出役通弁兼器機製造掛趨事席、2等訳官を経て開拓使の官吏となり、5年には自宅に気象測量所を設けて、日本人としては初めて本格的な気象観測を始めた。
その後、函館地方の沿岸測量を行い、さらにアメリカ人技術者ワッソン、デーらの指導のもとに実施された三角測量に従事した。8年、ロシアのペトロパブロフスクに出張し、翌年には千島列島を調査、測量して「クリル諸島海線見取図」を作成した。その後も北海道の測量、気象観測事業の上で指導的役割を果たし、北海道庁時代初期にはイギリス人メークとともに函館港湾調査に従事し、24年3月退職してからは札幌に居を定め、悠々自適の余生を送った。
天保、弘化、嘉永、安政、万延、文久、元治、慶応、明治、大正と85年の春秋を送り迎えた成豊は、船見町称名寺の福士家の墓地に眠っている。