羽野 栄一 (はの えいいち) 1916年~1990年
北海道で最初のデザイン集団を組織し、商業美術・デザイナーの社会的地位向上、後進の育成に尽カした商業美術家・羽野栄一。
羽野栄一は、大正5年5月15目富良野市(町)で父清五郎・母ナオの3男として生まれる。尋常小学校の頃は、絵を描くことが何より好きで、当時の漫画本「少年倶楽部」に何度も投稿し、入賞をしている。又、雄弁家であった栄一少年は、旭川で開かれた弁論大会で準優勝、書に至っては、独学ながら高等科の時、書道の先生から高く評価され雅号”春鶴”を与えられる。以後、中国から手本を取り寄せ毎日1,000字以上書き続けた。この頃からすでに物事を組み立て形にしてゆく素養を身につけていた。
昭和12年、百貨店の美術、看板を専門としていた”六書堂”に入社。その2年後、札幌三越に270名の応募の中から3名が選ばれ、その中の1人として装飾部に入る。
16年、百貨店の丸井今井に初めて企画宣伝部(現在の販売促進部)が出来、函館の丸井今井に引き抜かれる。本人の性分としては、時間から時間までのサラリーマン的生活は性に合わず2~3年のつもりで函館にやって来た。まさか、生涯をこの街で終えるとは誰れしも思わなかった。函館に来てびっくりした事のひとつに、新聞広告のタイトルは木版を使用という芸術豊かな広告とは言い難く、ビジュアルの荒地であった(羽野栄一談)。版下書きとか図案屋と呼ばれていたこの時代、市内の書店にはデザイン関係の書物は皆無であった。
22年、羽野栄一を中心として東京から疎開して来た中川巌、宮下広吉らが加わり12名の会員で「北方美術家集団」が結束された。その後、「北方」を「北海道」と変え、やがて「日宣美函館連絡所」となった。その後、日宣美(日本宣伝美術会)が大学紛争で20周年を前にして解散し、函館地区会員は、「函館デザイナー・グループ」を結成、54年に名称を「函館デザイン協会」に改称する。この間名称の変更や離合集散等幾多の変遷や紆余曲折の中心軸として、この集団をリードし支えてきたのは、羽野栄一の力量と、たゆまぬ努力に負うものだった。
この間デザイナーとしては初めての個展を棒二森屋で開く。この時の作品は観光ポスターで、コラージュによるその品のある作品は市民の心を和ませるものだった。また若手のテサイナーを育てることと、職業としてのデザインを社会的な面において向上させることに力を注ぎ、40年「函館デザイン研究所」を開設する。
羽野栄一の集大成として「新・平家物語」の画集がある。清盛が生れ、義経が自決するまでの70年間のドラマが28枚の作品の中に綿々と描かれている。富良野で生まれ、函館で開花したデザイナー羽野栄一の人生がそこに在る。
47年函館大学商業美術初代講師、50年函館市文化団体協議会会長就任、56年函館市文化賞(芸術部門)受賞。
晩年は、純粋絵画として油絵に取り組み、数えて6回目の個展は是非油絵でと制作に励む。病に倒れてからも創作の意欲は萎えることがなかった。
札幌の栗谷川健一、函館の羽野栄一として北海道テサイン界の重鎮として活躍した羽野栄一は平成2年5月26日、病没にて74歳の生涯を止じる。この年の9月、友人・知人たちの手により、念願の油絵による遺作展が開かれた。