長谷川 淑夫 (はせがわ よしお) 1871年~1942年
明治・大正・昭和の三代を生き、函館新聞界を代表した硬骨の言論人。大衆作家・海太郎、画家・潾二郎、ロシア文学の濬、作家・四郎の父、世民・長谷川淑夫。
明治4年9月11日、長谷川安邦の長男として佐渡相川に生れる。本名清。長谷川家は祖父の代まで幕府金座役人年寄り役で、父安邦は歌人でもあった。
佐渡随一の儒学者円山溟北の塾に学び、明治10年代中葉、初等教育を終え自由民権思想へのあこがれを胸に上京、東京帝国大学政治学部選科で法律とくに英法を学ぶ。
24年、父安邦没。学業半ばにして帰島。相川の高等小学校の教員を経て、31年佐渡中学の英語教師となる。清は副読本にディケンズの「英国史」を用い、非常に高度な英語を教えていた。又、当時在学していた北輝次(一輝)の思想形成に大きな感化を及ぼした。
清は楽天と号し、佐渡紙社友として才筆をふるい、斉藤長三が発行した文芸誌「佐山」に文を寄せ、父もその門人だった鈴木重嶺門下の「清楽社」同人として数多くの新派和歌を地元の新聞・雑誌に発表していた。
32年2月20日、羽茂村の医師兼儒者葛西周禎の長女由紀と婚姻届を出す。翌33年1月17日、長男海太郎生まれる。
34年佐渡中学を辞任、萩野由之、懐之父子をたよって上京。政治雑誌「王道」創刊に参加、政治経済を担当する。この年の暮れ、「王道」編集をやめ、帰島。
35年、佐渡出身で、明治10年ごろ上京し、一時内務局につとめ、その後函館「北海新聞」主筆をつとめた湘南・大久保達のすすめに応じ渡道を決意。衆議院選挙の応援演説で函館を訪れたということも縁となった。「北海新聞」の主筆となる。国家社会主義者を自認し、地方議会の廃止を訴えていた長谷川清は、犬養毅の普選論に共鳴し、これを函館の地にひろめるべく海を渡ったとされる。新聞メディアを主宰し、名を長谷川淑夫と改め、号も楽天から世民に変えた。ジャーナリスト世民・長谷川淑夫がここに誕生した。
37年1月7日、次男潾二郎が生まれる。38年、函館区会議員に当選。39年、函館区役所第二課長に就任。この年の7月4月、3男濬生まれる。42年6月7日、4男四郎生まれる。
43年、「北海新聞」連載の”昔の女と今の女”が内務省によって告発され、「北海新聞」の発行が禁止となり、これにより区会議員を解職される。
45年6月、平出喜三郎が「函館日日新聞」を買収し、主筆として迎えられ、「函館新聞」をおこす。林儀作もこれと行動をともにした。
大正3年11月19日、長女玉江生れる。8年、「函館新聞」社長兼主筆となる。(この間、海太郎、潾二郎、濬、四郎のおさななじみで、小学・中学時代の同窓生である久生十蘭こと阿部正雄が、函館新聞社に入社。「函館新聞」は、久生十蘭の文学的出発のきっかけとなった。)
14年、“「日本」を読みて-不喚書屋主人へ”を世民名で連載する。「日本」は大川周明の主宰する雑誌。この頃から徐々に大川周明のアジア論への傾倒をみせる。
昭和7年、「函館新聞」の夕刊に“王道に悩む”を連載する。この中で、かつて地方分権、地方自治の経済基盤として統制経済を志向した世民・長谷川淑夫は、そこに〈建設的共産主義〉という概念を吸収しつつ編みなおし、〈満洲社会主義〉のユートピアをおもいえがいている。
9年3月、函館大火により函館新聞社社屋焼失。長男海太郎の出資により再建、株式会社となる。場所は函館市末広町83番地。
14年、函館市より功労者として表彰される。
16年、戦時下統合で「函館新聞」終刊。「函館新聞」「函館日日新聞」「函館タイムス」3紙統合で「新函館」創刊。淑夫は取締役会長となった。
世民・長谷川淑夫が一代で築いたメディア「函館新聞」は幕をとじた。
昭和17年5月16日、東京の自宅で死去。享年71歳。内輪で神道による葬儀をいとなんだ後、28日、船見町の実行寺にて、「新函館」の社葬がおこなわれた。「新函館」紙は世民・長谷川淑夫の生涯を〈言論報国の一生〉と呼び、これを見送った。