函館市文化・スポーツ振興財団

林 儀作 (はやし ぎさく)  1883年~1936年

歯に衣着せぬ評論で「毒舌の濁川(だくせん)」と呼ばれ、新聞記者から代議士となり志半ばでこの世を去った佐渡出身の林儀作。

林 儀作

明治16年、佐渡で生まれる。号を濁川と言い、出身地の佐渡濁川の町名をとった。生家が鉱山業を営んでいたことから佐渡鉱山学校で学ぶ。佐渡毎日新聞に在社していた時、同郷の長谷川世民(函館新聞界を代表した硬骨の言論人で、大衆作家・海太郎、画家・二郎、ロシア文学の濬、作家・四郎の父、本名・長谷川淑夫)に招かれて函館の北海新聞に転じ健筆を振るう。

明治43年、筆禍事件(「北海新聞」連載の”昔の女と今の女“が内務省によって告発され、「北海新聞」の発行が禁止となった事件)で世民と濁川は禁固刑を受け、出獄のあと世民は平出喜三郎経営の函館新聞へ移ったが、濁川は一時浪人生活を送り、大正7年の函館日日新聞創刊に加わり、主筆兼編集局長として永く世民とペンを競う。

この頃の新聞記者で濁川程の博識者はいなかったと言われる。濁川の知識は、和漢洋を問わず、しかもその学識の門戸は極めて広かった。文字通り、温故知新そのもので、その時々の新しい学説、思想といった事に、明快な所見を述べていた。相手が坊主であれば、仏典を論じ、宗教哲学が飛出し、相手が医学者であれば近代医学から漢法医学と、まくし立て、裁判長、検事連が相手ならば、法理論が始まるといった具合で、それが専門的に、堂々と渡り合って、一歩も遜色なく、それどころかいつの間にやら、それらの専門家が濁川の話を、傾聴するという光景であった。それが単なる濁川の話術の巧みさというものではなく、その学識の深さがもたらすものであった。

濁川には、末広見番の芸者・お新さんという彼女がいた。何かの宴会で、佐々木平治郎代議士が、からかって濁川の事を、たかが新聞記者じゃないかと、悪口を言ったことがあった。お新さんはこの晩に限って珍らしく荒れて”おや、新聞記者の方が、代議士より、偉いのだと思って、惚れていたのに、代議士の方が偉いのかね。そうと判ったら、あたしゃ、ハーさんを代議士にしてお目にかけるわ。たかが新聞記者で悪かったわね。“と満座の中でタンカを切ったという。人の運命とはおもしろいもので、大正13年から2期、北海道会議員となる。お新さんのタンカも現実のものになった。

博識と卓見から繰り出される名演説は、反対派議員をも傾聴させたという。第18回総選挙に初出馬し強敵を退けて当選したのも、濁川の人望が厚かったことによるものだろう。

歯に衣着せぬ評論で「毒舌の濁川」と呼ばれたが、乏しい懐から慈恵院の孤児に雛人形を贈ったり、童話を聞かせて喜ぶという人情味もあった。

昭和11年、政治家としての洋々たる前途も約束された林儀作だったが、狭心症が生命を一瞬にして奪ってしまった。臨終の言葉は「こんな筈がない」という一語だった。

函館ゆかりの人物伝