土方 歳三 (ひじかた としぞう) 1835年~1869年
新選組局長・近藤勇の右腕として「鬼の歳三」と呼ばれ、箱館戦争で若くして散った、新選組副長・土方歳三。
天保6年5月5日、武蔵国多摩郡石田村(現・東京都日野市石田)に父・義諄、母・恵津の末っ子として生まれる。名は義豊、雅号豊玉。
安政6年、日野の佐藤道場に出稽古に来ていた天然理心流4代目の近藤勇とこの頃出会ったとされる。
文久3年2月、幕府の征夷大将軍徳川家茂警備のための浪士組に応募し、近藤道場(試衛館)の仲間と共に京都へ赴く。3年8月18日の「八月十八日の政変」後、壬生浪士組の活躍が認められ新選組が発足され、近藤勇が局長となる。
歳三は、副長の地位に就き、近藤の右腕として京都の治安警護維持にあたる。内部では、常に規律を遵守させ、規律を破った隊士に対してはたとえ幹部の人間であろうと切腹を命じ、隊士からは「鬼の歳三」と恐れられていた。
慶応4年1月3日戊辰戦争が勃発し、歳三は墨染事件で負傷した近藤に代わり新選組を率いて戦うが、新政府軍の銃撃戦の前に敗北する。島田魁ら数名の隊士のみを連れて大鳥圭介らが率いる旧幕府脱走軍と合流。
4月11日に江戸城無血開城が成立すると江戸を脱出し、下館、下妻、宇都宮、会津を経て仙台に至り、榎本武揚率いる旧幕府軍と合流する。
慶応4年10月20日、森町鷲ノ木から蝦夷地上陸。一隊を率いて川汲峠口から五稜郭に入る。五稜郭占領後、松前へ進軍し松前城を陥落させ残兵を江差まで追撃する。
12月15日榎本が各国領事を招待して催した蝦夷地平定祝賀会に合わせて五稜郭へ凱旋。その後、幹部を決定する選挙が行われ、榎本を総裁とする独立政権が成立、歳三は幹部として陸軍奉行並となり、箱館市中取締や陸海軍裁判局頭取も兼ねた。
明治2年4月9日、新政府軍が蝦夷地乙部に上陸を開始。歳三は二股口の戦いで新政府軍の進撃に対し徹底防戦する。土方軍が死守していた二股口は連戦連勝するが、もう一方の松前口が破られて退路が絶たれる危険が起こったため、やむなく二股口を退去し、五稜郭へ帰還する。
明治2年5月11日、新政府軍の箱館総攻撃が開始され、島田魁らが死守していた弁天台場が新政府軍に包囲され孤立したため、歳三は籠城戦を嫌って僅かな兵を率いて出陣する。
一本木関門(現・若松町)にて陸軍奉行添役大野右仲に命じて敗走してくる仲間を率いて進軍させ、奮闘する。歳三は一本木関門を死守し七重浜より攻めてくる新政府軍に応戦、馬上で指揮を執る。
乱戦の中、銃弾を腹部に受け落馬し、そのまま落命。享年35歳であった。
歳三は、榎本軍指揮官で唯一の戦死者となった。
戦死者の中から遺体は発見されなかったという。