函館市文化・スポーツ振興財団

間世潜 (ませひそむ)  1904年~1959年

戦前函館随一の写真記者と謳われ、戦後日本写真家協会創立に参加。“写真の永井荷風”とも評されたライカの名手・間世潜。

間世潜

明治37年4月19日、松川町の旅館を営む家に生まれる。本名小林政次。幼くして親を失い母方の親戚に養子として引き取られ小林姓となる。学歴等は不詳。末広町の田本写真館で見習い修業を積み、カメラマンとしての腕と文才を見込まれ昭和3、4年頃、北海タイムス函館支局(現・北海道新聞函館支社)へ入社。警察関係の取材など、カメラを自在に駆使する社会部記者として頭角をあらわし、同新聞社内では「函館のコーさん」のニックネームで知られた。昭和9年の函館大火の折、田本写真館及び港湾に停泊中のサルベージ船に通信拠点を急設し、災害報道に奮闘する。

昭和12年、日中戦争が勃発すると、従軍記者第一陣として戦地へ特派される(この時の撮影アルバムが一部現存している)。札幌本社勤務、青森県大泊支局長などを経て、太平洋戦争敗戦後、同社東京総局に赴任。本社写真部長への転勤命令を断わり同社を辞し東京でフリーランスのカメラマンとして生きる途を選択。以後、ペンネーム間世潜を名乗る。井伏鱒二の小説「駅前旅館」のモデルとなった台東区の旅館小瀧のバックアップを得て、谷中初音町にスタジオを構える。このスタジオは、画家の里見勝蔵、鶴岡政男、彫刻家木内克らがしばしば訪れスペースを借りて制作を行うなど、一時期、戦後美術家や文化人たちの交流の場ともなった。

今日、写真家間世潜の名はおもに小型カメラ、ライカの名手として語り継がれている。最もよく知られた代表作は、間世が通っていたカトリック教会の神父の推薦を得て、函館湯の川の女子修道院を長期にわたり取材撮影した写真集『ライカ写真集トラピスチヌ大修道院』(昭和29年、トラピスチヌ写真帖刊行会)。黒と白のコントラストが印象深く、しかも落ちついたトーンをもったその表現は、当時、黒白印画紙による写真プリントに携わる専門家たちのあいだで高く評価され、「間世調」というテクニカル・タームが生まれた。

他の著書に『女性美写真集-写し方と鑑賞』(昭和26年、梧桐書院)。個展に「私の知っている美術家」(昭和27年、タケミヤ画廊)、先代水谷八重子をはじめ新派、新国劇、歌舞伎の役者たちを撮影した「舞台の人々」(昭和32年、小西六フォトギャラリー)他。木村伊兵衛らとライカクラブを結成し親交を結ぶ。

昭和25年、日本写真家協会創立に参加。谷中から浅草田島町へスタジオを移し、勃興期浅草ストリップティーズの写真撮影も多数手掛け、″写真の永井荷風″とも評された。

昭和34年の暮れ、自宅兼スタジオで自ら命を絶った。

この優れた写真家の業績を再検証するために、はこだて写真図書館(豊川町9-23)では今年、常設展示室「間世潜の部屋」を開設した。遺族より寄託された関連資料や、写真を展示している。

函館ゆかりの人物伝