メルメ・ド・カション 1828~1870年
幕末期、箱館で布教活動しながらもフランス学校を開講し、アイヌに関する研究書を刊行、日仏交渉の舞台裏で活躍したフランス人神父、メルメ・ド・カション
1828年(文政11年)9月10日、フランス東部のレ・ブーシュウ地区のラ・ベスという寒村に農夫の父・アレキス・メルメ・カションと母・マリ・クロディーヌ・バルブの5人兄妹姉妹の次男として生まれる。
1858年(安政5年)6月4日、日仏修好通商条約締結のためフランスから派遣された全権公使グロ男爵の通訳として同行する。同年9月3日、日仏修好通商条約の調印が行われ、翌年の6月2日、横浜・長崎・箱館の3港が開港されるや、すでに宣教師として箱館派遣を任命されていたカションは、待機地の香港から上海へ、そこからロシアの通報艦に便乗して長崎に向かい、長い船旅の後、1859年(安政6年)11月25日、箱館の地に足を印す。宣教師として働らく最初の任地が、箱館だった。
しばらくの間、フランス政府代理領事を兼ねていたイギリス領事ホジソンのもとに身を寄せ、称名寺に仮寓し、やがて境内にある家に移り住む。住居を司祭館とし、箱館奉行所から聖堂建築用地を称名寺境内に借り、小聖堂を建て、布教活動をはじめる。
カションに日本語の補習指導を行ったのが、医師で進取の気性に富んだ人物、栗本鋤雲だった。彼は、交換にカションからフランス語を学ぶとともに積極的にフランスの政治・経済・軍事・風俗習慣など各分野にわたって質問をし、後に「鉛筆紀聞」として出版している。
1860年(万延元年)、フランス学校を開いて、奉行所の若い役人たちや町の人々にフランス語を教え始める。カションが如何にこの学校に情熱をそそいだかは、当時、上司へ宛てた手紙の中で、「私の遠大な希望のすべては箱館に設立した私のフランス語学校のうちにあります・・・」とまで述べていることからも窺える。
同年6月以降、イギリス領事ホジソン夫婦らとともに、幾度か北海道南部各地の探訪騎馬旅行をして、その際訪れたアイヌ部落の印象をまとめた「アイノー起原・言語・風俗・宗教」という探訪記をパリで刊行する。
当時、箱館には眼病や皮膚病の患者が多く、内科疾患も少なくなかったので、カションは、奉行や栗本鋤雲らの協力を得て施療院を開設する。さらに、フランスから正規の医者を呼んで、医学校を付属させた本格的な病院建設を奉行に提案し、賛同を得て順調に進んだかのように見えたが、不運が重なり実現には至らず、また、健康も思わしくなかったこともあって、愛してやまなかった箱館を去る決意をせざるを得なくなった。
1863年(文久3年)の夏、家庭の事情という表面上の理由により、箱館を去り江戸に向かった。
1870年(明治3年)、ニースで死去。