皆月 善六 (みなつき ぜんろく) 1831年~1904年
函館商人魂の規範として、また先駆的役割を果たした鉱業者・皆月善六。
天保2年2月、能登国鳳至郡(ふげしぐん)皆月村(現・石川県輪島市門前町)の皆月善兵衛の次男として生まれる。昔から加賀や能登の人たちの次男や三男は早くから北前船の船乗りを志す人が多く、善六も北前船の船頭を勤めていた。
明治6年、日本郵船の船長をしていた時、知床岬沖を航海中、知床連山に煙が上がっているのを目にし、あの煙は硫黄だと野心に燃えた善六は翌年春、横浜港に帰港すると同時に日本郵船を退職して函館に渡来する。
明治7年、雪解けを待って斜里村から人跡未踏の知床連山に挑み、イタシベウの硫黄鉱山を発見して開鉱に着手する。翌8年の秋までに開鉱から海岸までの荷下ろしの道をつけ、9年には、一部の硫黄を函館に運ぶという前途多難な事業経営が始まる。
冬期間は仕事が出来ず、5月から10月までの6ヶ月間の仕事であった。明治17年には、巨富の利を得て函館三大紀文(紀文=富豪・紀伊国屋文左衛門の通称。)の一人と言われるようになる。
巨万の利益を手にした善六は、弁天町から幸町にかけて、豪邸を建築し土蔵を数個構え、一時函館の硫黄王として全盛を博した。
当時、函館随一と言われた蓬莱町の大料理屋「中島屋」に本陣を構え、その2階から道路を越えて向いの料理屋に橋をかけて、道路越しに芸者を踊らせたというから飛ぶ鳥を落とさんばかりの勢いであった。
しかし善六が巨万の富を手にした陰には、悲壮な物語があった。硫黄鉱山には飲料水が皆無の状態で、食料や野菜がないため、坑夫が病に倒れ、水腫病が蔓延し、罹病者が出、ついには死者が出るなど大勢の犠牲者が出たのである。
明治27年、事業経営の陰で犠牲となった従業員の供養と菩薩を弔うために、斜里村に皆月寺(現・西念寺)を建立し、生涯を捧げて供養した。
明治29年7月6日、函館の富豪によって函館銀行が新設される。明治初頭、道内に本店を置く銀行10行の中でこの銀行は資本金が最も多く、その筆頭株主が善六であった。
明治29年12月、善六は一線から退き隠居生活に入る。息子に二代目善六を継がせ、父の名と同じ「善兵衛」と改名した。
明治37年2月17日、波瀾に富んだ生涯を閉じた。享年73歳であった。
事業が軌道に乗りだした時期に、浄玄寺(現・東本願寺函館別院)へ経蔵(経蔵=教典や仏教に関する書物を収蔵する建造物(伽藍)。)を寄進している。しかし、昭和43年5月16日の十勝沖地震で破損し、現在この経蔵は現存しない。