山本 行雄 (やまもと ゆきお) 1902年~1962年
弱冠18歳で二科展に初出品初入選を果たし、華々しく画壇に登場するが、近代日本美術史のなかで忘れられた存在であった山本行雄。
明治35年6月13日、国後島に生まれる。その後、両親と共に函館に移住する。
大正4年、公立住吉尋常高等小学校(現・函館市立青柳小学校)卒業。旧制函館中学校(現・函館中部高等学校)に入学した山本は、美術クラブ・鈴蘭画会の校外展に水彩画を2年連続して出品し、函館毎日新聞紙上で賞賛される。中学4年生の時には、函館日日新聞に「二科展の傾向を論じて、新興美術の将来に及ぶ」と題した論文を寄稿して、第一面に掲載される。
山本がはじめて油彩画の画材を手にしたのは、中学5年生の時で、ドストエフスキーの文学や有島武郎の「生れ出る悩み」から大きな感動を得ている。ことに有島武郎の小説は、山本を画家志望へと向かわせるのに強い影響を与えたようであり、大正9年の第7回二科展初入選時の新聞社の取材に対して、「私を絵に決心させたのは『生れ出る悩み』でした」と語っている。
大正9年、旧制函館中学校を卒業した山本は、自作の水彩画数点をたずさえて、二科展創立会員の正宗得三郎のもとを訪れる。しかし、正宗は山本に対し、「絵は田舎で描いていた方がよい」と酷評し、入門を断る。そのため山本は函館で二科展入選作の絵葉書などを手本として、油彩画の制作を試み、描きあげた10点あまりの作品を同年の第7回二科展に応募。そのうちの「風景」が初出品初入選して、画壇にデビューする。山本の二科展入選は、同世代の函館の油彩画家志望者によほど強い印象を与えたらしく、田辺三重松や池谷寅一は、後年の回想文にこの出来事を語っている。
大正9年10月16日から20日まで、生命社とヴァミリオン詩社の同人たちの後援を受けて、最初の個展を函館区公会堂(現・旧函館区公会堂)で開く。作品数は42点で、うち素描1点は有島武郎の所蔵品となっている。また同展目録には、「コノ貧しき展覧会ヲ第二ノ父タル有島武郎先生トドストエフスキーノ霊前に捧ゲル」とも記されている。山本は、有島武郎との師弟関係をさらに深めていく。
大正10年、池谷寅一、天間正五郎、内山精一、近岡外次郎ら4人と「アポロ美術会」の結成を試みるが、山本と4人の意見が対立し、山本を除く4人は北海道最初の美術団体「赤光社」を創立する。第1回赤光社展はこの年の8月に函館区公会堂で開かれ、客員として田辺三重松、佐野忠吉、笹野順太郎、三方(後の長田)正之助が参加する。
その後、二科展に連続入選し、大正12年には、二科会の若手作家グループ「アクション」に参加し、前衛的な作品を発表する。
後に日本画に転向し、油彩画の制作はほとんど行わなくなる。山本の油彩画家としての実質的な活動は、「アクション」の解散とともに終わってしまう。その意味で「アクション」時代においてこそ、山本行雄は油彩画家であったといえる。
昭和37年、死去。