函館市文化・スポーツ振興財団

鷲尾 吾雄 (わしお ごゆう)  1901年~1974年

全生涯を女子教育の振興に傾注し、今日の函館大谷学園をあらしめた鷲尾吾雄。

鷲尾 吾雄

明治34年12月3日、新潟県長岡市柿町において広西寺鷲尾雄広の次男として生れる。

昭和4年、大谷大学文学部国文科を卒業すると同時に、大谷高等女学校に奉職となり、前新郷法灌校長のもとで教育研究や校務処理の激務のかたわら、身をもって陸上競技の指導にあたり、函館市内、北海道内は言うに及ばず、当時の神宮競技大会、極東オリンピック大会等に選手を送って、檜舞台で”函館大谷”の名声を高める。また、編集発行を一手に引き受けての機関紙「双樹」の刊行は、全校生徒や同窓会に自信と誇りを堅持させるよき動機となり、学園に進歩的学風をもたらすこととなった。

昭和16年、日本国家の非常事態は、そのまま学校もまた非常事態として免れ得なかった時代に、30代の若さで第9代の学校長に就任。戦時下の学校運営や終戦をはさんでの混乱期によく対処し、私学教育の使命感に徹し、学園発展一途の信念をもって尽力した。

戦後の私学の方向を洞察し、高等学校への昇格、校舎増築10ヶ年計画の遂行、屋外グラウンド1万坪の新設、女子教育の将来を見通しての短期大学の創設等の諸策は、学園全機能をあげての協力のもとで順調に進められ、昭和39年4月、短大、高等学校、中学校を合わせて、約2,000名の在校生を有する総合学園としての実績をもつにいたった。このことはすべて、学校長としてのすぐれた学校経営の成果に外ならない。

昭和38年、短期大学の初代学長を兼任。函館市内における最も経験の深い校長として、広く函館市の教育界の発展のために活躍し、函館市教育審議会委員、函館市高等学校PTA連合会事務局長等の要職を歴任する。

私学関係としては、昭和24年以来、全国私立中学校高等学校連合会理事をつとめるとともに、北海道私学協会函館支部長として、27年に函館私学大会を、また全国私学教育研究集会の開催などに中心的役割を果たしつつ、市内の私立高等学校の団結、発展につくし、北海道私学振興基金協会の設置に努力し、理事としてその育成に尽力する等、私学の振興に寄与した。

昭和35年12月、私学法制定10周年記念にあたり永年勤続功労者として表彰、37年4月、親鸞聖人大遠忌法要にあたり、大谷派管長から大谷派教育功労者として表彰、37年12月、北海道私立学校教育功労者として北海道知事からの表彰、39年5月、女子教育の進展に貢献した功績が認められ藍綬褒章を受賞した。

昭和39年10月10日に開催された第18回オリンピック東京大会では函館大谷高等女学校卒業生の鈴木麗子、佐藤優子が体操競技の候補選手に選ばれ、同校のスポーツにおけるレベルの高さを示した。

昭和49年2月20日、全生涯を女子教育の振興に傾注した鷲尾吾雄は函館中央病院において腎不全のため逝去。享年72歳であった。

函館ゆかりの人物伝